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「それでね、ふと思い立って飼い猫を殺してみたのよ。身近な生物の死というのは、人間にこの上ない悲しみを与えるものでしょう? 大好きな飼い猫が死ねば、私にも悲しいという気持ちがわかるかと思って。でも全然ダメ、なぁんにも感じないの。その後も何度か小鳥や野良猫を殺していたら、両親に見つかって『悪魔憑き』呼ばわりよ。失礼しちゃうわ。私は私なりに考えてやっていたことなのに」
フローレンスは子どものように頬を膨らませるが、その表情に目立った感情はない。友達がいなかったことも、家族から気味悪がられていたことも、大切な飼い猫を死なせてしまったことも、本当に大したことだとは考えていないのだ。
まるで昨晩のディナーが何であったかを語るように、淡々とした調子で続けた。
「両親はバルナベット家に『悪魔憑きの娘』の暗殺依頼を出し、クラウスが私を殺しにやってきた。けれど私は殺されなかった。こうしてバルナベット家の一員として、今ものうのうと生きているの。人生とは不思議なものね」
フローレンスの最後の一言にだけはわかりやすい感情が滲んだ。喜び。
リヴィは目から鱗が落ちたような心地になった。フローレンスがどのような経緯でバルナベット家へと嫁いできたかなど、考えたこともなかったからだ。
(フローレンス様も、一度はクラウス様に殺されそうになった。けれども殺されることはなく、何十年経った今も妻としてクラウス様のそばにいる。それは……クラウス様がフローレンス様に魅せられたから? 暗殺者としての任務を遂行するよりも、1人の人間としてフローレンス様を愛することを選んだから?)
かつて『悪魔憑き』と呼ばれ家族から見放された少女は、暗殺者に愛され幸せな人生を歩んだ。かつて『厄憑き』と呼ばれ家族から虐げられたリヴィには、一体どんな未来が待っているのだろう?
フローレンスと話をして、初めて自らの望む未来が形になった気がした。
(私も……アシェル様とずっと一緒にいたい。使用人としてではなく、妻としてお傍に置いてもらいたい。クラウス様とフローレンス様のように、何十年経った後もずっと仲睦まじく……)
想いが形になれば涙が零れそうで、リヴィは目頭に力をこめた。せっかく施してもらった化粧を涙で台無しにしては、フローレンスから罵声を浴びせられることは目に見えていたからだ。
しかし不思議と、もうフローレンスのことを怖いとは感じなかった。彼女の発言に悪意はない、ただ思ったことを思ったまま口にしているだけなのだ。あどけない子どものように。
フローレンスは化粧筆を置き、リヴィの肩を軽く叩いて言った。
「さぁ、こんなもので良いでしょう。化粧道具はポーチに入れて持っていきなさい。ちぐはぐな顔になりたくなければ、口紅くらいはこまめに塗り直すことね」
リヴィは鏡を見つめた。まぶたに、頬に、唇に、くっきりとした色味が足された顔は艶やかでいて美しい。自分のものではない、別人の顔を見ているかのような錯覚すら覚えてしまう。赤を基調としたアイシャドウは、リヴィのルビーレッドの髪によく合っていた。
役目を終えさっさと客間を出ていこうとするフローレンスに、リヴィは静かに頭を下げた。
「フローレンス様、ありがとうございました」
「いいえ。どうぞ楽しんでいらっしゃい」
フローレンスの声は相変わらず冷たい調子だが、リヴィはその声に人の優しさを感じた。
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