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第二話 佐藤海斗と不思議な少女
「チッ!」
聞こえるように舌打ちしたつもりだったが、目の前で会計をしている中年の女は世界が自分を軸に動いているのを疑いもしないのだろう、ゆっくりとした動作で財布の小銭を数え始めた。ファストフードの店員は穏やかな表情を崩しもしないで、両手を前に添えてトレーに並べられていく小銭を眺めている。
今時、現金で会計をする人間が信じられなかった、新型コロナウイルス感染症のまん延で、対人との非接触が推奨されてからは現金でのやり取りは急激に減った、しかしそれ以上にこれだけ行列ができているにも関わらず、まるで急ごうとしないその姿勢はもはや、後続の人間に対する嫌がらせなのではないかと勘ぐるようにまでなっていた。
「どっちが勝ってますか?」
仕方なく、スマートフォンで野球中継を見ていると不意に背後から声をかけられた、何事かと思い振り返ると、白いオーバーオールを着た長い黒髪の女の子が目元に笑みを浮かべて立っていた。
「はあ、えっと引き分けですね」
戸惑いながらも途中経過を伝える。
「引き分けかぁ……」
女の子は顎に手を当てて難しい顔をしている、巨人かヤクルトのファンなのだと察したが自分からは何も言わなかった。
「野球好きなんですね、どちらのファンですか」
女の子が聞いてくる、マスクをしているので分からないが、かなり若そうに見える、おそらく十代だろう。
「巨人ですけど」
「かぁー、巨人ですかぁ、私はスワローズファンなんです」
「へー、そうですか」
「次のお客様ー」
知らない男にいきなり話しかけてくる女の子に戸惑っていると店員に呼ばれた、あまり関わり合いになりたくないので丁度良い。先程の中年女はいつの間にか会計を済ませていなくなっていた。
店員にすばやくオーダーを伝えると、スマートフォンで支払いを済ませる、流れるようなスピードでアッという間に次の女の子に順番をまわせた、全員がこれくらいのスピード感で会計を済ませれば殆ど渋滞しないで済むに違いない、無能な人間のせいで有益な時間が削られる事は業腹だったが、こいつらのおかげで日本の経済が回っているのも事実だ、日本人全員が賢かったら困る企業は計り知れない。
渡されたレシートを確認してテイクアウト用のチーズバーガーセットを取りにカウンターへ向かった。商品を受け取り、女の子に軽く手をあげて足早に立ち去ろうとすると彼女はこちらに駆け寄って来て笑顔を向けた。
「一緒に野球観に行きませんか?」
それが星野美波との最初の出会いだった。
※
アラームで目が覚めるとまずはスマートフォンを探した、大抵は枕の下に潜り込んでいるのだが、やはり今日も同じ場所に相棒は隠れていた。眠りにつく直前までイジっていたのに、いつの間にその場所に移動したのか分からない。兎にも角にもこの相棒がいなければ一日は始まらない。デジタル社会の犠牲者と言えばまさにそうなのだろう。
「アレクサ、おはよう」
相棒に向かって話しかけると、誘拐犯が使うボイスチェンジャーのような、無機質な女の声で「はい」と返事が返ってきた。同時にベットの横のカーテンが自動で開きリビングのテレビがつく、さらにカウンターキッチンの上にあるアレクサの本体がなにやら喋りだした。
『七月二十一日、水曜日、只今の時刻は午前十時三十五分、本日の日本橋人形町の天気は晴れ、最高気温は三十二度、最低気温は二十五度――』
設定した地域の天気予報がながれる、布団から這い出ると寝室からリビングを抜けて洗面所に向う、鏡の裏からコンタクトレンズを取り出すと片方ずつ装着した、相棒同様こいつが無ければ何もできない、というか何も見えない。
そのまま歯を磨いて顔を洗う、目やにが溶けて洗い流される感覚が好きだったが今日はいまいち付いていない。目やにのメカニズムとは一体何なのだろう、気にはなっているがわざわざ調べたことはなかった。
視界がクリアになるとキッチンに向かう、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してグラスに波々と注いだ、一気に全て飲み干すとソファに腰掛ける。ここまでの一連の動きが朝起きてからのルーティーンだ。テレビに目を向けるとメジャーリーグの中継が映し出されていてスタメンの発表をしている、今日もお目当ての日本人選手は出場しているようだ。
『ブブブブブブッ』
ローテーブルに置いてある相棒が震えている、液晶画面を見ると顧客の名前が表示されていた。
「クソがッ!」
声に出す事で多少怒りが紛れる、今日日、連絡手段に電話を使用する馬鹿が信じられなかった、なぜコイツラは自分が電話する時に都合よく相手も電話に出る事ができる状態だと思うのだろう、いや、馬鹿だからそんな事も考えていないに違いない。もちろん電話にはでない、相棒を放っておいてテレビに視線を戻した。
三十分ほど全く姿勢を変えないままテレビを眺めているとお腹が鳴った、相棒を手に取りデリバリーのアプリを開く、十一時を過ぎたのでランチの配達を行う店舗が幾つも表示されている、家から最も近いチェーンの珈琲ショップでホットドッグと珈琲を注文した。歩いて一分の距離にあるので買いに行った方が早いのだが着替える手間を考えると躊躇われる、十分も経たずにインターホンが鳴った。
「どーも、配達館ですー」
何も答えずにエントランスのオートロックを解錠する、一分後、再びインターホンが鳴る。今度は玄関の方だ。
「馬鹿がっ!」
アプリの設定で置き配にしている上に、玄関の扉には置き配OKの札が掛かっている、そこまでやってやっているにも関わらず一定の割合でインターホンを鳴らす馬鹿がいるのだ。A地点からB地点に物を運ぶだけの仕事、いや、これを仕事と呼んで良いのだろうか、子供のお使いレベルだろう。高校生がアルバイトで稼働しているのならば分かる、しかし見た所ほとんどが四十過ぎの中年男だ、彼らはまさかこれで生計を立てているのだろうか。ファストフードの前でタバコを吸いながら待機している非常識な彼らならばあるいはない話でもない。
「置いといてください」
それだけ言うとインターホンの通話終了ボタンを押した、この生産性のないやり取り、時間を一瞬無駄にした上に気分が悪い、玄関まで商品を取りに行くと紙袋に入った商品がポツネンと置かれていた、素早く回収して玄関のドアを閉める。
遅めの朝ごはんを食べて、ダラダラとソファの上でメジャーリーグの中継を見ていた、終わる頃には大抵、午後の二時過ぎになっている、重い腰を上げて書斎に置いてあるデスクの前に座りパソコンを開く、先程電話してきた顧客からメールでメッセージが入っている、どうやらホームページの更新依頼のようだ、だったらはじめからメールにしろ、と心のなかで毒づくとさっさと仕事を終わらせた。
夕方までには全ての仕事を片付けた、六時からはプロ野球を見なければならない、パソコンを閉じてスーパーに行く準備をしているとインターホンが鳴った、特に何かを注文した記憶がないので液晶ディスプレイに映る人物を確認すると、ギョッとした。
冗談じゃなかったのか……。
昨日ファストフードで話しかけてきた長い黒髪、白いオーバーオールの女の子がそこに立っていた、立ち尽くしたまま数秒その場で考えて無視することにした、いないと分かれば諦めて帰るだろう。もう一度鳴ったインターフォンを無視するともう鳴ることはなかった、安心した所で家を出る、一階の駐輪場から自転車にまたがりマンションから出た所でいきなり声をかけられた。
「あー! 海斗くーん、佐藤海斗くーん」
ちょっ、フルネームで呼ぶんじゃない、急いで辺りをキョロキョロと見渡したが同じマンションの住人はいないようだった。
「なんで居留守使ってるのよー」
白いオーバーオールを来た女の子が、マスク越しにほっぺたを膨らましている、やはりかなり若い、下手したら女子高生だ。
『独身変態ロリコン男、女子高生と売春』
雑誌の表紙に自分の顔写真が掲載された所を想像すると目眩がした、初犯なので実刑は免れるだろうがネットに晒された経歴と顔写真で二度とお天道様の下を歩くことができなくなるかもしれない。
「ちょっ、ちょっと、えーっと――」
昨日、名前を聞いたような気がしたが思い出せない。
「ひどーい、名前忘れてるー、美波だよ、星野美波」
そうだ、そうだ、綺麗な名前だなと関心した記憶がある。
「ごめん、ごめん、で、星野さん」
「美波でいいよ」
その言葉は無視して続けた。
「えーっと、星野さんは、一体何のご要件で?」
敢えて丁寧な言葉遣いを使うことで無関係な人間を装うが、マンションの前には誰もいなかった。
「何って、一緒に野球観ようって言ったじゃん」
それは、あなたが勝手に言っただけで、こちらは一言も了承していない、そもそも、なんで部屋番号が分かったのだ。疑問に思って考えていると彼女は察したように答えをくれた。
「昨日、海斗くんがこのマンションに入ってから電気が付いた部屋を確認したの、六階の一番端っこ」
このマンションはワンフロアに八部屋、つまり601か608、郵便受けからちょいと手を入れて601の郵便物を漁る、佐藤海斗の名前を確認してからインターホンを押したと彼女は説明した、なぜか得意げだ。
「君ねえ、それは犯罪じゃないかなあ」
昨日、帰り道が一緒だと言って付いてきた彼女に名前を聞かれて咄嗟に答えてしまった事を後悔した。
「だって、連絡先聞くの忘れちゃったから」
全く悪びれた様子もないままに彼女はオーバーオールのポケットに手を突っ込んだ、野球のチケットを二枚取り出して僕の眼前に突きつける。
「じゃーん、指定席のSだよ、奮発しちゃった」
頭をフル回転させて今の状況を整理した。選択肢は二つ、彼女に付き合って今から東京ドームまで野球を観に行く、もしくは彼女のことはすっかり無視してスーパーに向う。脳内会議の結果、答えはいとも容易く導き出された。
「じゃあ、僕はこれから用事があるんで」
自転車にまたがり、右手を軽く上げてペダルを漕ぎ出そうとした時だった。
「死んでやる……」
「へ?」
「お小遣い、全部使ってチケット買ったのに、ドタキャンされて、もう死んでやるー!」
デカいデカい、声がデカい――。
「ちょ、ちょっとちょっと、死ぬって大袈裟な」
少女はその場にしゃがみ込むと顔を覆って泣いている、が、どうも演技のような、嘘泣きのような気がする、しかしこのまま立ち去ることもできずに戸惑っていると唐突に声をかけられた。
「佐藤さん、こんにちは」
マンション管理人のおばさんがそこに立っていた、いつもこの時間帯にはいない筈だがどういうことだ、心拍数が急激に上がるのを感じた。
「お財布を忘れちゃって、もう、嫌ねえ、年取ると」
「そうでしたか」
「あたしも、良く忘れ物するんですよー、まだ若いのにー」
いつの間にか、横に立っている彼女が管理人のおばさんと喋りだした、目を見たが赤くなっていない、やはり嘘泣きだったか。
「こちらは佐藤さんの……妹さんかしら」
二十八歳になる僕の娘と言うには年齢がいき過ぎている、しかし彼女と言うには若すぎる、管理人のおばさんが一瞬で導き出した答えが年の離れた妹だった。
「ぜんぜんちがいま――」
「そうです! これから一緒に野球を観に行くんですよ、な」
彼女に同意を求めると笑顔でウンウンと頷いている。
「あら、仲の良い兄弟ねえ」
「そうなんですよ、では」
管理人のおばさんに別れを告げると、足早にその場を立ち去った。
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