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1章、18歳と22歳
一話
彼女は理解している。そして、四年前まではそれを最大限に活用していた。今はより高めるために努力を続けている。
だが、今の彼女はそれを目深に被った帽子とマスクで覆って隠している。いつも以上に、それを隠している。
このバスの中に自分を知っている人がいたら。
考えるだけで彼女の顔は無意識に歪む。
長い時間乗っていたバスは目的地に着いた。
運転席左隣の両替機で両替をしてから料金を払い、バスを降りる。瞬間に突風。彼女が目深に被っていたキャスケットは勢いよく飛ばされる。
あっ。声を出す暇もなく、キャスケットは風に攫われていく。
早く追いかけなきゃ。キャスケットを見上げながら走り出した彼女だったが、数秒後には諦めて足を止める。
キャスケットは雑草林の中に消えて行ってしまった。もう追いかけたって見つかりっこない。
この暑い七月に分厚い生地の帽子を被るのは嫌だが、顔は隠したい。だから、薄くても顔を隠してくれるレースのキャスケットを選んだのだが、にしたって風で飛んでいくほど軽く薄かったのだろうか。レースだからこそ、風は間から抜けて持ち上がることはないんじゃないのだろうか?
なんて考えても、飛んで行った事実は変わらない。彼女はくるりと体の向きを変えて、重い足を動かす。
最悪。やっぱり私はこの地に嫌われてるんだ。
生まれ育った故郷だと言うのに、彼女は馴染み深いこの地に恨み言を連ねる。
「さき、どこ行く気?」
自分の名前を呼ばれて条件反射で振り返ったことに酷く後悔した。だが、後悔などしても後の祭り。もうどうしようもない。
あぁ、帰ってきてしまった。彼女のことをさきと呼ぶのはこの村の人達だけ。家族もみんな、彼女のことを咲耶という名前ではなく、さきという愛称で呼ぶ。
私の名前は咲耶だ。さきじゃない。咲耶は心の中で毒を吐く。
「母親に向かってそんな顔する? 二年ぶりだってのに、可愛くない娘」
「二年と四ヶ月ぶり」
久々の再会だと言うのに、血の繋がった母親と娘であるはずなのに、二人の間には形容しがたい空気が生まれる。
笑顔なんて一切ない。互いに因縁の相手を見つめるような憎悪のこもった目で見つめ合う。
母親は無言で止めていた車の運転席に乗り込む。咲耶も重い足を嫌々動かして、後部座席に乗り込む。
母親の座る運転席の後ろ。ルームミラーを見なければ母親と目が合うこともないし、目線は手元のスマホから動かす気もない。
咲耶は絶対に母親と話さない。強い意志を示すような態度をとる。
「制服は持ってきたの?」
そんな咲耶の態度を見た母親はわざと話しかける。
「……持ってこないわけがない」
話しかけるな。咲耶は態度を強調するかの如く短く返事をするのみ。
「おばあちゃんのお葬式から逃げ出した前科があるんだから、さきが何をしても、どんなに常識がなくても一切驚かない。そうか、そういう子だよねって納得するだけよ? あなたはそういう印象を抱かれることをしでかした」
何年前の話をしてるんだか。これだからババアの相手はしたくない。
もう何を言われても答える気がなくなった咲耶はポケットからイヤホンを取り出して両耳を塞ぐ。
爆音で流し始めたのは、激しいラップ長の曲。内容は別れた彼女の悪いところにねちねちと連ねる男を第三者目線で罵っている。
あの男そっくり。
咲耶はそんなことを思いながら、親戚一同が揃ってるであろう大きな門を構える本家のことを考えるだけで胃がむかむかとする。吐き気がして、喉が酸っぱくなる。
小さな村を治めてる気分でいる王様。それが本家の、阿萬家の人達。そんな王様が死んだ。それで本家分家はもちろん、村中大騒ぎ。
高校三年生の咲耶は全寮制の離れた高校に通っている。血の繋がりがあろうが、二人を除いた誰が死んだってこの村に帰って来る気はなかった。授業を理由に突っぱねるつもりだったというのに、王様は都合良く夏休みが始まった途端にぱたりと前触れなく死んだのだ。
迷惑なんて一言では片付けられない。王様、咲耶の祖父にあたる人物のせいで、生まれてこの方どれだけ迷惑を被っているのか。
死ぬなら自分が殺したかった。死にたいと願うぐらい、早く殺してくれと叫ぶぐらい、悲痛な死を贈りたかった。咲耶はラップを聞きながら、死んだ祖父へ思いを馳せる。
母親が何かを言ってるかもしれないが、咲耶は大音量のラップで耳を塞いでいる。もうスマホも見ていない。目をつぶって真っ暗闇を堪能している。
外なんて、どこを通ってるかなんて見なくてもわかる。がたがたの道を、鋭角の曲がり角を。咲耶は村中の建物に火を放って、その光景を見て心の底から大声で笑いたい衝動をぐっとこらえる。
「咲耶、いい加減にして」
大声が音楽を押しのけて咲耶の両耳に突き刺さる。
閉じていた目をわざとゆっくり開けると、母親は眉間に皺を寄せて咲耶を睨みつけている。
「とっくに本家についてるの。さっさと降りて」
左耳だけはイヤホンをつけたまま、右耳につけていたイヤホンはだらりと垂らして車を降りる。
咲耶の全身真っ白な服が、既に降りて咲耶の前に仁王立ちしていた母親を威嚇するように太陽光を反射する。
「さっさと制服に着替えて。そんな真っ白な服で入ったらどんな目で見られるか。私の努力の邪魔ばっかりするんだから、本当に」
膨張色である白だけを身にまとっているというのに、咲耶の身長百七十二センチ、ウエスト五十一センチ、体重四十四キロという驚異のスタイルの良さはそんな色を跳ね除けている。
咲耶は威嚇するためにこの服を選んだ。咲耶と歳の近い、子供達を閉じ込めてる部屋にこの服で入らないと意味がない。
私はあなた達と違う。特別な人間なんだ。
その事実をわからせて、違う次元に住んでいるんだと知らしめる。そんな理由でも作らなければ、発狂してしまう自信がある。
「咲耶、早く着替えなさい」
母親の癖だ。怒っている時はさきではなく、咲耶と呼ぶ。咲耶は怒ってる怒ってる、と面白がっているだけ。怖くもなければ響くこともない。
「私より醜い人が指図しないでくれる?」
くるりと母親に背を向けて歩き出す。咲耶は後ろを振り返らずとも母親の表情がわかる。どんな気持ちが胸中に渦巻いてるか、自分に対してどれほどの殺意を抱いてるのか。考えただけで口元が緩む。
大袈裟で無意味に大きい引き戸を開けて、スロープのある広々とした玄関で靴を脱ぎ捨てる。
みんなきっちりと靴を揃えているが、咲耶はそんなことをするつもりはさらさらない。
手も使わずに踵を踏みつけて高いところから脱ぎ捨てると、厚底のスニーカーは大きな音を立てて玄関に転がる。
あぁ、今は出さなきゃ。咲耶はマスクを引っ張るように耳から外してポケットに突っ込む。ついでに、だらりと垂らしたイヤホンもぐちゃぐちゃにまとめてポケットに突っ込む。
「相変わらずのがさつさ」
声のした方を見たくなかったのに、声は咲耶の目指す子供達のいる部屋への進路から聞こえた。
咲耶は車中と同じように、ポケットからスマホを取り出して目線を下に移す。声の主の姿を見るのも、存在を感知するのも嫌なのだ。
それこそ、さっき散々悪態をついた母親なんかより、酷い殺し方をしたいと思った祖父なんかより。もっとずっと許せない存在。
「久々だな、あの時のラブホぶりじゃね?」
その一言だけで咲耶の心臓はどくん、と嫌な音を立てて飛び跳ねる。
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