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二話
もう四年も経つのに。経ってんのに。
咲耶は四年前の忌々しい記憶を、何度も忘れたいと願った記憶を昨日のことのようにありありと思い出してしまう。
消えろ。思い出すな。そう脳に命令してもやめてくれない。忘れたい記憶を脳は再生し続ける。
早く、離れなきゃ。こいつから離れなきゃ。じゃなきゃ私は私じゃなくなる。
早く私を取り戻さなきゃ。私を、私を。
荒くなりそうな呼吸を寸前のところで押さえつけて平然を保ちながら、玄関近くの襖を大きな音をたてて開け放つ。
がやがやと騒がしかった音が一瞬で消え去り、部屋の中に押し込められていた子供に分類された人達は否が応でも咲耶に視線を向けてしまう。
「さき、おかえり」
一番初めに声をかけたのは、肉付きのいい穏やかな顔立ちの女。
「岩寿も、みんなも、姉妹どころか親戚一同お揃いで。ここにいる全員暇そうで何より」
咲耶は目的を果たした。もう十分。
開け放った襖はそのままにして、部屋に入ることなく玄関に戻る。玄関のすぐ近く。車椅子でも入れように作られたバリアフリー仕様の大きなトイレに入って、真っ白なシャツとフレアパンツを脱いで、毎日着ている制服に着替える。
特別可愛いわけじゃない。ただのセーラー服。
咲耶は慣れた手つきでリボンを結ぶ。
真っ黒で絹のような光沢を持つ太ももまで伸びる長い髪の中に手を入れて、さらさらと落ちる様子を鏡越しに見て満足気に微笑む。
これは咲耶の日課だ。全寮制の高校に通っていて、シャンプーなどの日用品は備え付けのものがあり買う必要はない。そんなものに金をかける余裕など普通はないのだが、咲耶はそのどちらにも当てはまらない。
自慢の髪への手入れを欠かすことはないし、髪を含めた美容への投資は惜しまない。金は心配することはない。
「……大丈夫。安心して、今日の私も世界で一番可愛いよ」
言い聞かせるように言葉に出して、鏡に映る不安な顔を無理矢理笑わせる。
あぁ、笑うんじゃなかった。そう思っても後の祭り。唯一、咲耶の体で自信のない部分を目に焼き付けてしまった。
急いで開けた口を閉じる。見せるな。もう絶対、人前で笑うのはまだ早い。
まだ、まだなの。まだ足りない。まだ完璧じゃない。咲耶は頭の中で叫ぶ何かを必死に抑えるが、呼吸が荒くなってきている。
穴を埋めるために努力してるのに、努力すればするほど呪いみたいに中身が空っぽになっていく気がする。けど、今更止まる気はない。
今止まったら、止まってしまったら。
「さき? 中にいるんだろ? 大丈夫か?」
ノックと共に聞こえてきたのは聞き慣れた声。咲耶は急いで入口の扉を開けて声の主に姿を見せる。
「お父さん! 久しぶり」
「久しぶり。元気そうでなによりだよ」
咲耶は飛びつきたい衝動を何とか押さえつけ、淑やかに、だが子供のような満開の笑みで父親を見つめる。
「うん。やっぱりさきには笑顔が似合う。咲の漢字は花が咲くみたいに笑ってほしくて入れたんだ。本当はもっと笑ってほしいけど、可愛い顔をマスクで隠しちゃうからあまり見れないのが悲しい。でもその分たまにしか見れなくてレアな感じがする」
「お父さんにならマスクしなくても大丈夫だし笑えるよ。それに、大好きなお父さんを目の前に笑うなって方が難しい」
病院はどう? おじいちゃんとおばあちゃんは元気? お父さんは体におかしなところない? 咲耶の質問攻めに父親はまぁまぁと落ち着かせてから、言葉を続ける。
「さきは……帰ってくるまでは元気だったよな」
「さっきまでどんよりしてたけど、お父さんと会えたからめっちゃ元気になった! 私はお父さんに会えばいつでも元気だよ」
「電話でも思ってたけど、いつの間にか自分のことさきって名前で呼ばなくなったな」
「うん。お父さんのおかげで少しづつ大人になれてる気がする」
高校三年生、十八歳になって未だに一人称が名前とか、それも愛称なんて子供っぽいにもほどがある。咲耶はそう考えて高校に入ってすぐに一人称を私に矯正した。
「あなた、そろそろ」
母親の声がしたが、咲耶は反応しない。父親はわかったすぐに行くよ、と優しく声を出す。
「少しの辛抱だから」
「……わかってる」
「お父さんはいつでもさきの味方だから。何か嫌なことがあったら言って」
「……私、あの部屋に、子供に分類された人達が押し込められてる部屋に行かなきゃだめなんだよね?」
「助けられなくてごめんね」
少し長めの上がり眉と横長で強い印象を与える目。クールビューティと呼ばれる美を持つ咲耶は、その言葉には似合わない不安を顔全体で表現して、目には涙を溜めてうるうると輝いてる。ぱっちりとした平行二重がいつもよりも、もっとずっと咲耶に可愛らしさを与える。
祖母譲りの顔だが、この二重だけは父親譲りだ。この二重のおかげで祖母よりも柔らかい印象を与えさせる。
「さきより年上の岩寿も臣史くんも。今じゃあの部屋の最年長になってる吏嗣くんも。みんなまだあの部屋にいるんだ。さきもまだあの部屋から逃げられない。僕は本家の人間じゃいから、そこら辺のことには手も足も、口を出すことだって許されない。娘を守れなくて不甲斐ないけど、こればかりはごめんねって言うことしかできないんだ」
父親から目線を外して、咲耶は下を向いている。
父親の優しい言葉に申し訳なさと不甲斐なさが渦巻いている。子供扱いされたくないのに、もう十八なのに、駄々をこねて父親を困らせているのがどうしようもなく恥ずかしい。
「大丈夫、大丈夫だよ。さっきなんて吏嗣と会ったけど、ちゃんと目を見て普通に話せたの。吏嗣なんて私と目を合わせようともしなくってさ。四つも歳上なのに大人気ないよね」
嘘だ。声を出せなかった、顔も見れなかった。吏嗣に声をかけられただけなのに、思い出したくない記憶が蘇って過呼吸になりかけた。
「だから大丈夫。心配しないで! お父さんは大人の役割があるからそっち行ってよ。お母さんに怒られちゃうよ?」
明るい笑顔を作って、まだ完璧じゃない部分も見せて。
「無理に吏嗣くんと話さなくてもいいんだから。適度に距離を置いて、さきが辛くないように、自分を守れるようにするんだよ」
「ありがとう。さきのお父さんがお父さんで良かった」
あっ、と顔を赤らめても言葉は消えない。
それでも、咲耶はなんだか四年前に戻れた気が、何も知らなかった子供に戻れた気がして、自然と口を開けて笑える。
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