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三話
父親と話している時はマスクのことなんて頭から抜けていたが、父親と離れた瞬間からマスクをしなきゃという衝動が襲ってくる。
どこを探しても見つからなくて、リュックの中に畳まずに丸めて突っ込んだフレアパンツのポケットに入れたことを思い出す。
咲耶は廊下だということも気にせずに、リュックの中身を散らばせて、奥底に沈めていたフレアパンツのポケットからマスクを取り出す。
「……ま、そうなるよね」
ぐちゃぐちゃのマスクを見るまでは想像してなかったが、実物を見たらそりゃねとしか言いようがない。
新しいマスクを取りだして、顔の半分を隠す。
咲耶は酷い花粉症を持っていて、春秋と顔全体がぐずぐずになるが、今は七月下旬。秋花粉が飛ぶにはまだまだの時期。それにこの暑さの中マスクをするというのは、半ば拷問かと思うぐらい苦しい。少し歩いただけで、マスクの中には熱気が充満してしまう。
それでも、咲耶はマスクを手放すことができない。まだ、その時期ではない。
帰りたい。今すぐにでもこの家から、村から逃げたい。そんな衝動を我慢するかのように、乱雑に廊下に散らばっている荷物をリュックにこれまた雑に、服を畳もせずに丸めて突っ込む。
相変わらずのがさつさ。
するはずのない声が耳の奥に響く。さっきのあいつの声を頭が勝手に再生してる。勝手に自分を罵ってくる。
子供達の押し込められてる部屋。あそこに声の主がいる。他にも、わんさかと会いたくもない血が繋がってるだけの奴ら。
岩寿はいつもみたいに柔らかい笑顔でいるはず。天乃と照名は二人でこそこそと悪口で盛り上がってるだろうし、木知流は臣史くんにべったりくっついてるはず。
あいつは、あの部屋で一番年上で一番偉い人になってる。でも、相変わらず貼り付けてあるみたいな気持ち悪い薄ら笑いで周りの連中に紛れてる。
二年と少し経ったからって、どうせみんな変わってない。血のにじむような努力をしなければ、そうそう簡単に人は変わらない。
咲耶はその事実を嫌というほど知りすぎている。
嫌でも入らなきゃいけない。なら、ぐずぐずしてても今すぐ入っても変わらない。咲耶は短く息を吐いてからあの部屋に入った。
咲耶たち姉妹と阿萬家現当主の息子二人。今この部屋に押し込められてるのは二つの家の七人。
昔はもっと大人数を押し込められていたが、みんなもう大人にカウントされるようになって、この部屋の人数はどんどん減った。昔は狭いと思っていた部屋が、七人だとかなり広く感じられる。
「……さきちゃん、久しぶり」
「別に気にしなくていいよ。臣史くんは木知流と遊んでればいいし、天乃と照名は悪口で盛り上がってればいいし、岩寿達は成人してるんだからそれっぽく振る舞っててよ。私の存在なんか認識しないでいいから。ってか、認識しないでほしいし」
咲耶は相変わらず、とため息をついてしまう。
話しかけるなと負のオーラを出してスマホをいじってる咲耶に、臣史と呼ばれた男は恐る恐る声をかけたのだ。彼なりに気を使って話しかけたつもりだろうが、完全に逆効果。咲耶の言葉で他の六人みんなが動きを止めてしまう。
「そう言うならそうさせてもらうよ。そのほうが咲耶も俺達も気楽に過ごせそうだし、ね、みんなも」
……は? 咲耶は一瞬だけぽかんと口を開けてしまう。
あいつ、私のこと咲耶なんて呼ばなかった。あいつ、一人称は僕だったはず。あいつ、あいつ、なんなの? なにあれ。なにあの態度。全部が全部気持ち悪くてたまらない。咲耶は体中に得体の知れない何かが這っているような感覚に陥り、無意識にぼりぼりと体を掻きむしる。
「それにしても、みんな遅いよね。退屈な葬式が始まるのも楽しくはないけど、ここに押し込められて待機ってのも暇で仕方ない」
吏嗣くんの言うとおりだよね。岩寿がそう返す。
吏嗣と呼ばれた男は床の間の前に陣取って、長い木製ローテーブルの誕生日席でみかんをもぐもぐと食べ続けている。
咲耶は入口の近く、吏嗣からは一番離れた場所にいるのに声が聞こえてくるのだから、いらいらが止まらない。
「吏嗣くんも私も、まだまだこの部屋に押し込められるのかな? 私は二十一になったし、吏嗣くんも今年二十二になるでしょ?」
「酒も煙草も解禁されて、成人式も終わって年金払えって手紙も来たのに。世の中的には大人になってるはずなのに、この家の人達からしたらまだ俺も岩寿も子供らしいよね」
「久々に帰ってきたけど……やっぱり、息苦しいよね」
「俺も岩寿も一番上の子供だからね、どう足掻いても逃げられない……やってられないよな」
他愛のない会話。時間を潰すためだけの、中身のない空っぽの会話。
みんながみんな、この時間を持て余していて、退屈で、どうすればいいかわからずにとりあえず同じ部屋にいる人達と話してる。
咲耶はイヤホンで耳を塞いでスマホを見るという、母親の時と同じ対応をする。
だが、いかんせんスマホで時間を潰すのにも限界がある。SNSは全部見尽くした。溜まりまくってたトークも全部返信したし、迷惑メールばかりの受信メールフォルダも整理した。
どうしたものか、と周りを見ると、そういえばみんないくつになったんだっけ? なんて意味のない思考を始める。
岩寿は三つ上だから二十一、天乃は一つ下の十七、照名は二つ下の十六、木知流は六個下の十二。咲夜は五人姉妹の次女。学校にいる時に家族のことなんて少しだって考えないから歳を思い出すのも一苦労。誕生日なんて覚えてるはずもないから、みんなが実際は今いくつなのかは考えても無駄。
なんで五人も子供産んどいて、切望していた男は一人もいないのか。好きなキャラほど出てくれない物欲センサーなる言葉を思い出して、咲耶はそれだと納得する。
今回死んだ咲夜の祖父から見て、曾孫にあたるのがあとの二人。阿萬吏嗣と阿萬臣史。当主だった祖父が死んで、次の当主はその息子になるはずなのだが、息子はとっくに死んでる。そのため、咲耶の従兄弟にあたる吏嗣達の父親が現当主となっている。
本家の阿萬家と分家にあたる咲耶たち蓑輪家の関係は、元々ごちゃごちゃとわかりずらい。それが様々な人の行動や野心のせいで余計にわかりにくくなっていて、咲耶は思考を放棄してる。
だって、考えたって私にはどうしようもないし。
咲耶の口癖だ。事実、どうしようもない。だから咲耶は蓑輪家からも阿萬家からも、生まれ育ったこの村からも遠く離れた高校を選んだのだ。どうしようもないことからは逃げるしかない。
「吏嗣くん以外は少し手伝ってもらいたいことがあるから来てくれる?」
がらがら。襖を開けながら咲耶の母親が声をかける。はぁい、気の抜けた返事と共に、みんな折り曲げて座っていた足を伸ばしてから立ち上がる。
「吏嗣くんはまだゆっくりしてて。あと、咲耶は来ないで。咲耶がいたら他の人達がいい顔しないから」
くすくす、聞こえてくる小さな笑い声は天乃と照名のものだろう。相変わらず子供らしく、咲耶を見下して差別して、自分より下がいるんだと安心しきってるらしい。
咲耶は心の中でくそがと悪口を吐きながら母親を睨みつける。母親は咲耶のことなんて見向きもせずに、五人の先頭を歩いてすぐに見えなくなる。最後に出た岩寿はご丁寧に襖を閉めて、咲耶は吏嗣とこの広い部屋に二人きり。
「……さてと、二人になったな」
さっきのくそがという悪口は天乃と照名に向けてのものではない。母親と、そして吏嗣へのもの。
「吏嗣はまだ女をレイプしてるの? 私以外に被害者は何人いるのか教えてよ」
咲耶は吏嗣と向かい合わせになる位置、入口近くの誕生日席に陣取る。そして、二人して貼り付けられた不気味な笑顔を互いに向けている。
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