3、愛情ゆえの不安

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3、愛情ゆえの不安

静まり返った深夜。 この日、遅い帰宅を果たした康介はその足で真っ直ぐに寝室に向かった。 扉を開けて、少し慌て気味に中の様子を確認する。 そこには、ベッドの上で眠る楓の姿があった。 今日は悪夢に魘されている様子もなく、静かに眠っていた。 (……良かった) ほっと安堵して、康介はおもむろに楓に手を伸ばした。 頰に手を当てて、そこにある温もりを確かめる。 それから、楓の体をそっと抱き締めた。 「康介さん……?」 目を覚ました楓がぼんやりとした顔で怪訝に首を傾げる。 「すまん。しばらくこうさせてくれ」 「……うん」 康介は楓を抱き締め続けた。 そこに苦しい感情があることを察して、楓は小さく頷いた。 これまでにも、こんなことは何度かあった。 刑事である康介は、時にやり切れない辛い事件に直面することがある。 その度に康介は楓を抱き締めた。 疲弊した心のエネルギーを補充するように。 直接的に何かを聞くことはしないが、楓はそのことを理解していた。 だから、康介の気が済むま彼の腕の中でじっとしているのだった。 「…………」 楓の体温を感じながら、康介は今日直面した事件を反芻する。 正確には事件ではなかったのだが…… 女子高生が自宅マンションの屋上から飛び降りて亡くなった。 彼女の名は大市美海(おおいち みか)。 捜査の結果、事件性は無く自殺と断定された。 彼女は今年の4月ごろ、見知らぬ男によって性的暴行を受けた。 命までは奪われなかったが、肉体的にも精神的にも大きな傷を負った。 その後、彼女は家族や友人に支えられながら懸命に回復に努めた。 少しずつ笑顔も見せるようになり、普通の日常生活を送れるようになった。 そうやって、周囲が安心していた矢先に、彼女は自殺した。 最後の日記には「もう限界です。ごめんなさい」と書かれていた。 「楓……」 「うん」 今の楓は、大市美海とよく似た状況の中にいる。 惨い暴行を受けて、心と体に大きな傷を負った。 それでも、懸命に生きて回復に努めている。 日常生活に戻り、少しずつ笑顔も見せるようになってきた。 …………同じなのだ。大市美海もそうだった。 「楓……」 「う……ん」 楓を抱き締める腕に強い力が込められる。 どうしても、大市美海と楓のイメージが重なってしまう。 彼女は大人しくて真面目で、常に周囲に気を配るタイプだった。 彼女が回復していたように見えていたのは、そのように見せていたんだろう。 家族や友人がそう望んでいたから。 無理して笑い、周囲には「大丈夫」と言っていたんだろう。 そうして、誰にも本当の苦しみを打ち明けられないまま、限界を迎えたんだろう。 手に取るように分かる。楓も同じタイプだから。 「楓……!」 「う……」 より強い力で全身を締め付けられて、楓は小さく呻いた。 彼が苦しそうにしているのに気付いて、康介は慌てて腕の力を緩めた。 「すまん、苦しかったか?」 「ううん、大丈夫」 呼吸を整えながら、楓は康介に向かって優しく微笑んで見せた。 その笑顔に胸が締め付けらて、康介は再び強い力で楓を抱き締めた。 「なあ、楓」 「何? 康介さん」 「楓は良い子だから、俺の言うことは何でも聞いてくれるよな?」 「うん」 楓が頷くと、康介は腕から力を抜いた。 そして、楓の両肩を掴んで正面からしっかりと彼の目を見つめる。 「じゃあ、約束してくれ」 「何を?」 「辛い時は、辛いってことをちゃんと俺に伝えてほしい」 「え……」 「俺に気を遣って、大丈夫なフリをしないで欲しいんだ」 「…………」 「どんなことでも良いから、ちゃんと話を聞くから」 「…………」 「頼むから、一人で抱え込んで、一人で苦しむような真似だけはやめてくれ」 真剣に懇願する康介の顔は悲愴感に満ちていて、今にも泣き出しそうだった。 楓は思わず息を呑む。 「約束、してくれるか?」 「……うん。約束する」 康介のあまりの剣幕に気圧されて、楓は何度も首を縦に振った。 それを見て、康介は深く息を吐き改めて楓を抱き締めた。 「よしよし、やっぱり楓は良い子だな」 「…………」 安心したい気持ちを息とともに吐き出しながら、楓の頭を撫でる。 優しい手つきとは裏腹に険しい雰囲気を纏う康介に、楓はえも言われぬ不安に襲われた。 (何があったんだろう。康介さんをここまで苦しめるなんて) 込み上げる不安を押し殺して、楓は震えるその手を康介の背中に回した。 こうして暫くの間、二人はお互いを抱き締め合った。
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