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「陳杢……? 聞かない単語だな」
家族と話す時にだけ使う中国語の知識が役に立った。硬貨に刻まれた二文字は、不自然で意味不明な漢字の並びだった。
「まあ、いっか」
李静はそう言うと、機械を元に戻して警報を止め、残りの入金作業に取り掛かった。彼は元来、深いことは気にしない性格なのだ。
そもそも今は早く入金を終わらせて店に戻るのが先決だった。というのも、閉店間際に店長が客と揉めてトラブルになり、締め作業がずいぶん後ろ倒しになっているのだ。閉店時間の遅い飲食店の中でも今日は断トツで、入金室には李静以外誰もいなかった。
「店長が仕事増やしてんじゃねーよな……あっ」
入金作業を終え、空になった入金バッグを愚痴と共に金庫にしまう。その時、例の硬貨が開いた口から滑り落ちてきた。
「……」
床に落ちたそれを見つめる。
先ほどは金を盗んでいるように防犯カメラに映っては嫌だと思いしなかったが、この時、何度でも自分の目に触れようとしてくるこの硬貨が李静は妙に気になった。
何か形容しがたい衝動――まさしく出来心というやつだ――に駆られ、李静は拾い上げた硬貨をデニムのポケットに捩じ込んだのだった。
「入金した金額は合ってたわけだし、大丈夫っしょ」
誰に言い訳をしているのか律儀にそう独りごちてから、李静は入金室を後にした。
シンと静まり返り明かりの落ちた、閉店後の従業員通路。
非常灯くらい少しの機械音でも立てればいいものを、入金室の外にはあらゆる音を暗闇が飲み込んでしまったかのような、徹底された沈黙が広がっていた。
李静はこういった暗がりや静けさが苦手であった。有り体に言えば、怖がりだった。だから、鼻歌ではなかなか済まされない音量で流行りの歌を歌い出したのである。
「ラララー」
李静はさっさと店に戻ろうと足早に歩を進め、レストラン街へと続く扉を開いた。
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