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◆沈黙は金、雄弁は死
「つっても、バイト先の名前はチンモクじゃなくて猫猫軒だよ」
「まおまお……?」
アルバイト先へ向かう道すがら、夏湖が一つ年下だと分かった途端に李静はタメ口をきいた。そして夏湖にもタメ口で話すよう嬉々として強要してきた。
夏湖は夢でなければ関わることのないタイプの人間だなあと思いつつも、相手のあまりに気取らない態度につられて頷いていた。
ひとまず「そうなの?」と答えてから、夏湖は続ける。
「わたしの夢の陳杢ってお店はすごーく長いエスカレーターの先にあって……そのエスカレーターも案内の看板も派手なネオンで飾られてるの。キラキラしてすごく綺麗で、読めない漢字がとてもお洒落で、そのエスカレーターに乗るぞっていつも思うんだけど……必ずそこで目が覚めちゃうの。……確か」
「エスカレーター? ここ最上階だよ?」
「さすが夢!」と李静は楽しそうに笑う。夏湖は隣を歩くそんな彼を眺めた。
ここが自分の見ている夢の中だということを信じている様子はないのに、なぜこの人は自身の存在そのものや発言はすべて受け止めてくれるのだろう。逆の立場だったら絶対に、頭のおかしい人だと思って逃げてしまう。
「うん?」
視線に気づいた李静がこちらを見た。夏湖が慌てて目を逸らした時、頬にわずか生温い風が触れた。顔を上げる。
「わあ! 李静、ほら!」
「は? ……はあぁーっ?!」
夏湖が輝かせた瞳の先には彼女の言う通り、遥か天空まで伸びるネオンのエスカレーターが聳えていた。
「……俺、マジで夏湖の夢ん中にいる?」
「行こう、李静! きっと美味しいチャーハンが待ってるよ」
「チャーハン?!」
夏湖は止める間もなくエスカレーターに乗り込んだ。夢だと思っているからか躊躇いがない。さすがのお気楽思考な李静も、入金を終えて店舗に戻るはずが訳の分からない世界に飛ばされたことを実感し始め、混乱する。
ただ彼は夏湖の見る夢の世界で夏湖から離れることの方がよっぽど恐ろしかったので、すぐさま彼女の後を追った。
「夏湖の目的ってチャーハン?」
「そうだよ。わたし一番好きな食べ物がチャーハンなの。それに夢の中だから、きっとお腹いっぱい食べても太らない。わたし食べる夢って見たことないんだ、ちゃんと味するよね? 楽しみ!」
出会って間もない李静にも、夏湖が珍しく饒舌になっていることが判り、笑った。
そんなふうに話をしてるうち、果てなく見えたエスカレーターにもついに終わりがやってきた。同時に現れる、巨大なネオン看板を掲げた中華料理店。
「陳杢! そうか、チンモクって……」
「李静、知ってるの?」
「うん。ほんの少し前から」
そう言って李静はデニムのポケットから金ぴかの硬貨を取り出した。入金機を詰まらせてたそれである。
「本当だ、陳杢って書いてある。よかった! お財布持ってないからわたし心配してたの」
「そこ? まあ……とりあえず入ってみようか。一応には、いい香り」
李静の言う通り、辺りには食欲を唆る香りが漂っていた。
二人は危機感も持たずに、その怪しげに佇む陳杢に入店したのだった。
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