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◆現で会えたら
「音もしなかったけど、結局味もしなかった……」
李静は額に浮かんだ汗を袖口で拭うと、弱々しくそう呟いた。
「そうなの? わたしはまさしく、死にそうなほどおいしかった!」
「よかったね……。あー本物の店長に会うの、マジ怖ぇ」
難問は李静のラーメンと夏湖の餃子であったが、二人は見事条件を達成させた。
ラーメンはパスタのように箸にくるりと巻きつけ、啜らず咀嚼して食べる作戦が功を奏した。ASMRのために用意されたとしか思えないような見事なパリパリ羽付餃子も、頑張って一口で収めることでなんとか無音で食べ切った。
李静が最後のシューマイを飲み込んだ時、完敗だと言わんばかりに店主は膝を突いた。その時突如出現したエレベーターに二人は慌てて飛び込んで、店主が我に返る前にと、一つしかない『現』のボタンを連打したのだった。
ガラス張りのエレベーターが暗闇の中を降下する。相変わらず外にはネオンサインが浮いていたが、降りるにつれて電気の切れかけたものが増えていった。
「李静。今考えるとすごくバカバカしいんだけど……真剣に取り組んでくれてありがとう」
「いや、何がホントで何が嘘か分かんねーもん。タダメシ食えたからいいよ」
やがてエレベーターは速度を落とした。気がつけば外にはネオンではなく、美しい朝焼けの街が広がり始めている。夏湖は別れの気配を察知し、告げた。
「李静は……本当にわたしの夢の住人じゃなくて、現実にいる人なの?」
「えっ、今更?」
だから、そうだってば――。そう続けようとした李静だったが、夏湖の物悲しそうな眼差しに思わず言葉を飲み込んだ。
これを吊り橋効果と言うのだろうか。李静には目の前の夏湖が妙に可愛らしく、離れ難く感じられた。
李静は両手で包むように夏湖の手を取った。クシャリ、冗談っぽく笑って言う。
「……また来てね」
「え?」
チン、と音を立ててエレベーターはどこかへ到着した。開いた扉の外から眩しい朝日が差し込んでくる。
「李静、ありがとう」
「こちらこそ! じゃあ、夏湖――」
“おはよう”。
誰かの声で夏湖は目を覚ました。むくりと起き上がり、寝ぐせ頭に朝の光を縁どらせる。
思い返そうとするそばからいとも容易く零れ落ちて、消えてゆく夢の記憶。夏湖は何かに駆られるように一生懸命に手繰り寄せようとしたが、無駄だった。
何かわたしは、可笑しくて不可思議で大変で――しあわせな夢を見ていた気がする。
目を擦ろうとして、乾いた物音に掌を見た。そこにはシワクチャになった、小さな紙切れが一枚。
それはどこかの割引券だった。
夏湖は眠気の抜けきらないたどたどしい声で、印刷された店名を、静けさの中でそっと呟く。
「中華飯店……ねこねこけん?」
完
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