洗濯機の上の眼鏡

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 眼鏡は、狭い路地に面する家の車庫にあった。古びた洗濯機の上に置いてあり、そこから一切動くことはなかった。雨の日も、風の日も、太陽の厳しい日も、雪がしんしんと降る日も、眼鏡は同じ場所に存在し続けた。  車庫のシャッターは四六時中開いていて、僕は登下校中、いつでもその眼鏡を見ることができた。朝も夕方も、遅刻や早退するときも見た。そして、やはり、場所が変わることはなかった。  眼鏡は捨ててあるのかもしれない。忘れられているのかもしれない。見える人にしか見えないのかもしれない。  だが、正解はわからない。家の人を見かけることがなかったため、聞くこともできなかった。  眼鏡は、なんとなく歳をとった人がかけるもので、センスは良くも悪くもない。誰かに見せるためではなく、新聞を読むのに作られたみたいな、質素なものだった。  このことをクラスメイトの石永さんに教えてみようかと、脳裏をよぎったこともある。だが、一度も話したことないのに、最初にする話題が眼鏡では心許ない。  通学路の家に、動かない眼鏡があってさ。  この話を耳にした世界中の人々が、口をあんぐりと開けている様子が容易く想像できる。アメリカ人も、インド人も怪訝な表情でこちらを見ている。もちろん石永さんも。 彼女と目が合うのはうれしいことだけど、困らせたくはない。  結局、僕はこの話をほとんど自分だけのものにしている。唯一、話したことがあるのは通学路でいつも一緒になる勇輝さんだった。 「眼鏡が洗濯機の上にあるんですよ、ずっと。真ん中から、少しも動かないんです」 「へえ、そうですか」  勇輝さんは真面目を絵に描いたような人で、誰に対しても敬語だった。同い年くらいの若者にも、年下の僕にも、小学生にもそうだった。彼は近くのデイサービスの施設で働いていて、高校までの道すがら、話し相手になってくれた。どういう経緯で仲良くなったのかはよく覚えていない。落とし物を拾ったとか、挨拶からなんとなくとか、そういうことがあったのだと思う。 「日常的に使う眼鏡が動かないって変ですよね。なんでかな」 「なぜでしょうね。家の方に聞いてみました?」 「聞いてません」 「そうですか」 「なぜ眼鏡はあそこにあるんでしょうか」 「うーん」勇輝さんは腕をくんだ。「忘れているのか、あえて洗濯機の上に置いているのか」 「僕も考えたんですよ。目印とか、ただ忘れているだけだとか。でも納得いかなくて」 「意外と何かを封印しているのかも」  僕ははっと彼の顔を見た。普段、冗談を言わない彼の意外な発言だった。 「封印? 霊的なやつですか?」 「お札の代わりとかね」  僕は一理あるなと思った。 「家の目の前にお社があるんですよ。あれと関係あるのかな」 「いや、冗談ですよ。すみません。忘れてください」  勇輝さんは笑ったが、僕は新たな視点を得た気がした。調べてみよう。  しかし、暖簾に腕押しとはこのことで、進展は全くなかった。お社は氏神を祀っているだけのようで、目の神様だとか、健康とは特に関係がなかった。勇輝さんも気になったのか付近の神社について調べてくれていた。ただ神社は天満宮と水天宮で、眼鏡とは関係がないと教えてくれた。この地域に、眼鏡を洗濯機の上に置く風習もない。  やはり家の人に聞くしかない。しかし、玄関のチャイムを押して「どうして眼鏡が置いてあるのか」と藪から棒に聞くのも、どうかと思った。石永さんに突然、眼鏡の話をするのと同じくらい奇天烈だ。  結局、僕は春夏秋冬、謎を抱えたまま生きた。家の人には会えず、眼鏡はそのままだった。  しかし、奇跡とは起こるもので、桜の蕾がちらほらと見え始めた頃、とうとう家の人と出会った。帰宅途中、車庫を見ると、椅子にお婆さんがちんまりと座っていた。  思わず立ち止まった僕は、お婆さんと目が合い、反射的に会釈した。  お婆さんは口元に手をやって微笑んだ。小さくかわいらしいお婆さんだった。 「こんにちは」僕は言って、一歩だけ近づいた。 「あらまあ。今日はいい天気ですねえ」 「はい。桜もあと少しで咲きますね」 「ええ」お婆さんは頷いた。「今日はどちらへ?」 「今日ですか? 今日は高校へ行って……、今はその帰りです」 「そうですか」 「あの、なんというか珍しいですね。今までずっとこの前を通っていたのに、お婆さんを見かけたのは初めてで」 「まあ。じゃあ、時間が合わなかったのかもね。それか、存在感がなかったのかも」  お婆さんは、おほほと笑った。 「あの、聞きたいことがあるんですけど」 「なにかしら?」 「そこの眼鏡」俺は洗濯機を指差した。「あれ?」 「どうしたの?」 「いや、そこの洗濯機の上の眼鏡」 「はい、はい」 「ずっと同じ場所にあったのに、今日は洗濯機の角にありますね」 「今さっき野良猫が来て、洗濯機の上に乗ったの。それで、ずれたのね」 「ああ、そうでしたか。……あの、僕が聞きたいことはですね、その眼鏡がなぜずっと同じ場所にあったのかってことなんです」  聞いてやった、と内心思った。ようやく謎が解ける高揚感がそこにあった。 「それはね、お爺さんがちゃんと帰ってこられるようになの」 「お爺さん?」 「そう。私の旦那さん。もう遠くにいてねえ」  お婆さんはわずかに俯き、悲しそうに、それでも過去を懐かしむように微笑んだ。 「お爺さんはね、洗濯機の上に眼鏡を置く癖があったのよ。ちょっと先にある自動販売機に、飲み物を買いに行くときに眼鏡を外して、真ん中に置くのよ」  僕は頷いた。高揚感は鎮まり、申し訳なさが少し顔を出していた。 「だからねえ、ここに置いてるのよ。家を忘れずにいつでも帰ってこれるようにね。そして、真ん中からずれたら、私がこっそり元通りにするの」 「あの、何年前に?」 「六年前からね」 「そうですか」 「ねえ、今、あなたは高校何年生なの?」 「僕ですか? 今は……二年生です」 「好きな子はいるの?」  意外な質問だった。何と答えようか考えていると、お婆さんはまた笑った。 「いるのね?」 「……はい」 「彼女の名前は?」 「石永由香子さんです」 「そう」  お婆さんは満足したように頷いた。 「でも、話したことないんですよ。何て話しかけていいのか」 「何でもいいのよ。今日はいい天気ですね、とかね。きっと、その由香子さんも待っているわよ」 「そうですかね」 「そうよ」  会話が途切れると、またお婆さんと目が合ったことを認識した。なんとなく春一番が吹きそうな気がした。 「眼鏡のこと、お話ししてくれて、ありがとうございました」 「いいえ。こちらこそ、お話しできてうれしかったわ」 「それじゃ、さようなら」 「またいつかね」  僕は会釈し、路地に戻った。  少し歩くと、例の自動販売機が見えた。僕は無意識にポケットから小銭入れを出していて、赴くままに百円玉を二枚入れた。無糖の缶コーヒーを買い、お釣りを取り出していると、勇輝さんが小走りでやってくるのが見えた。 「佐伯さん、よかった」 「どうしました?」  僕は缶コーヒーをしゃがんで取った。 「いやあ、忘れ物あるから、ちょっと待っていてと言ったのに、いつの間にかいないので。いや、私が悪いですね。すみません」 「忘れ物?」  僕はよっこらせと立ち上がる。 「この眼鏡拭きです」 「ありがとうございます」と僕は空いていた方の手で受け取った。「でも、なんで勇輝さんが持っているんですか」 「え?」  勇輝さんは、そのまま止まった。胸に付けている、西島勇輝と書かれたネームプレートだけが揺れた。 「どうしました?」 「いえ、あの……。とりあえず帰りましょうか」 「どこに?」 「おうちに」 「おうち?」 「はい」  僕は手に持っていた缶コーヒーと眼鏡拭きを見た。 「ああ、そうか」 「佐伯さん、おうち覚えていますか?」 「いや、忘れちゃったのかなあ。どの家にもね、眼鏡がねえ、なかったんだよ。洗濯機のいつものところに」 「ああ、なるほど。……そうでしたか」  ヘルパーの西島さんは何度か頷いた。  彼の半歩後ろを私は付いて行った。彼は私の家を知っているようだった。でも、ここに来るまで、私の家はなかった気がする。私の家には車庫があって、そこに古びた洗濯機があって、その上の真ん中に眼鏡があるから、見逃すことはないのだけれど。 「ここですよ」  私は彼に促されるまま、その家を見た。車庫があり、そこに古びた洗濯機が置いてあり、その上の真ん中にいつの間にか使わなくなった私の眼鏡があった。 「ああ、ここだ」  私は覚えているままに奥へ向かい、コンクリートブロックを一段登って、家へと続く戸を開けた。 「あら、お父さんおかえりなさい」と娘が顔を出した。「西島さんもありがとうございます」 「じゃあ、私はこれで。佐伯さん、また明日」  彼は手で挨拶をして、私もそれに手で応えた。 「お父さん、今日は少し遅かったね。缶コーヒー買ってきたの?」 「ああ」  数年前に戻ってきた娘は、私を居間の椅子に座らせてくれた。 「今日もまた高校行ってきたの?」 「高校?」 「やっぱり、覚えてないか」 「高校は知らんが、婆さんと会った気がする」 「お母さんと?」 「そう」 「……様子、見に来たのかな。もうすぐ七回忌だから」 「どうだろうか」と言いながら、私は缶コーヒーの蓋を開けた。  一口飲むと、高校時代の婆さんの姿が脳裏をよぎった。  石永由香子さんに初めてかけた言葉は「今日はいい天気ですね」だった。でも、言い終わった瞬間に春一番が吹いて、砂埃が舞った。僕らは顔を覆い、僕は恥ずかしくて顔を半分隠したままで、彼女は笑いながら僕を見ていた。砂埃が消えると彼女は「いい天気ですね」と言ってくれた。僕はそれに「いい天気ですね」と応え、彼女もまた「いい天気ですね」と返事をした。それが何度か続き、お互い、声を出して笑った。何が面白いのかわからなかった。でも、何が幸せなのか、それはもうわかっていた。  過去を思い出しながら、私はもう一口、もう一口とコーヒーを飲んだ。  よく知っている春が、すぐ近くまで来ている気がした。
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