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いつかあなたは、涙になって
枝葉の揺れる音に、シノは顔を上げた。
森深くの小さな塔の最上階。まわりの木々と同じ背丈にある窓には鉄格子がかけられている。格子の間に指を入れて、窓の錠を開けた。ちょうど正面の木の枝に、青年が腰掛けていた。身なりのいい彼の名はロット。宮廷医師の息子だ。ぱっと笑顔で手を振る彼に、シノはため息をついた。
「またそんなところにいる。怒られても知らないわよ」
「怒られ慣れてるので平気です。……猫、死んじゃったんですか」
彼はシノが抱いている黒猫を見た。
「寿命だったの。このところ元気がなかったし」
「悲しいですね」
「そうね」
「――どうかしましたか?」
気遣うように、ロットが訊ねる。シノはためらってから、力なくつぶやいた。
「この子が死んでも、涙が出ないの」
『宝石姫』
この国で、シノはそう呼ばれている。シノの涙は宝石になる。涙の雫がこぼれた瞬間、丸く白い宝石になるのだ。その体質を聞きつけた役人は、シノを塔に入れた。
シノが泣けば宝石ができる。国は宝石を売る。国が潤う。民が喜ぶ。だから泣いてください、と懇願された。シノは言われたとおりに泣いた。泣いて、泣いて、泣いて。いつしか涙は吸い尽くされて、枯れてしまった。
乾いた風が吹き込み、シノは目を閉じる。
「今日は泣けると思った。でも涙が出ない。わたし、薄情なのかも」
「――いいえ」
シノは顔を上げて、ロットを見た。驚きに口をぽかんと開ける。
「ロット……? 泣いてるの?」
ロットの瞳からぽろっと雫が落ちた。シノとはちがい、彼の涙は固まることなく頬を濡らす。
「どうして、あなたが泣くの」
ロットは涙を拭うこともしないで言う。
「シノさまが泣かないからです」
「だからって、どうしてあなたが」
意味がわからない。
「俺、シノさまの考えてることは、けっこうわかるんです。今のシノさまは泣きたいのに泣けなくて苦しんでる。薄情なんて、そんなことありません。見てるこっちもつらいくらい、シノさまは苦しんでいますよ」
ロットの涙を張った瞳が、陽の光に輝いた。
「だから、俺が泣きましょう。シノさまが泣けない代わりに、俺がシノさまの涙になります。すこしはシノさまの気も晴れるかもしれません」
「……そういうものかしら」
シノは苦笑した。
ロットはいつだって自分の感情に正直だ。笑いたいときに笑うし、泣きたいときに泣く。うらやましいな、と思わないでもなかった。シノの感情は抜け落ちてしまったから。
「わたしは、そんなに悲しんでいるように見える?」
ロットはすぐさま頷いた。
シノは猫を抱える腕に力を込める。それから、タオルで猫の身体を包みこんだ。窓の鉄格子はかろうじて猫を通すだけの幅があった。ロットは枝の端ににじり寄って手を伸ばす。先にいくほど細くなる枝がロットの体重にきしんで危なっかしいが、どうにか受け渡した。
「この子を弔ってあげて。それから」
わたしの代わりに泣いてくれてありがとう、とシノはつぶやいた。すこしだけ、気分が楽になったから。ロットはまだ涙を浮かべながら、いいえ、と微笑んだ。
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