終章 最後の一線

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「――あの、蒼さん」 「んー、なーに?」  蒼から求められた予想外の要求に喬久は感情の落とし所が分からず困惑しながらただ一定間隔で蒼の頭を撫でていた。  一方の蒼はそんな喬久の困惑などいざ知らずといった顔で、ソファに腰を下ろした喬久の腿に頭を乗せて満悦そうな笑みを浮かべていた。やけに上機嫌そうな蒼の表情とは裏腹に、喬久が想像していたものとは何かが違うような状況に承服しかねていた。ガラス製のローテーブルには幾つかの皿が並べられており、その上に盛り付けられた料理は部屋の主である蒼が作ったものでは無く、キッチンを借りて喬久が調理したもので色味は黒から焦げ茶色に偏り、見栄えもあまり良いものとは言えない。 「これは一体何なんでしょうか」 「恋人の膝枕でしょ?」  喬久の腿に頭を乗せながらその長い足はソファの手摺へと放り投げ、困惑の表情を浮かべる喬久の顔を見上げるとばちりと片眼だけを伏せてウインクを飛ばす。整った顔をした蒼から飛ばされるウインクは同性である喬久に対しても効果覿面で、明らかにからかわれているというのが分かっていながらも、ふたりきりの空間で自分だけに向けられたウインクには喬久の表情筋が妙な動きを示した。  蒼からの要求は喬久の手料理と膝枕だった。到底そんな事で返しきれるはずがないと思う喬久だったが、蒼がそれを望むのだから応じない訳にはいかなかった。喬久が当初予定していたものとは大きく異なっているその内容には躊躇いを隠す事が出来ないまま、もやもやとした気持ちを抱いたまま柔らかな髪質をした蒼の頭部を撫でていた。 「それとも喬久は」  言いながら蒼は腿の上で寝転がり喬久の腹側へと頭を傾ける。ぴくりと喬久が肩を揺らした原因は振り向いた蒼の片手が意図的なものであるかは分からなかったが、喬久の内腿の上へと置かれたからだった。喬久の微かな動揺を見逃さなかった蒼は横目で視線を送りつつもにやりと口の端を上げる。 「こういう事を――期待してた?」  置かれた蒼の手がそのまま腿の上を滑り、その指先が喬久の中心部へと触れる。これまで蒼に与えられてきた物事へ対する等価交換としてはそれ位の事しか思い浮かばなかった喬久だったが、蒼から望まれたその内容との差に自らの考え方の極端さを改めて知った。顔から火が出そうな程の恥ずかしさに喬久は思わず撫でる手を止めて両手で自身の顔を覆う。正当な恋愛の手順を今まで踏んだ事の無かった喬久は肉体関係以外の手段を知らず、ここに来て百戦錬磨ともいえる蒼との差が出るとは思っていなかった喬久は顔を隠したままソファの背もたれに体重を預ける。  布越しであるにも関わらず蒼の吐息が直接掛かってきているような気もして、嘘を吐けない喬久はこの期に及んでの悪足掻きは無駄であると悟り腹をくくる事に決めた。 「――期待していなかったって言ったら嘘になります」  両手で顔を隠し天を仰いだまま告げられる喬久の言葉に蒼の表情が和らぎ、腿の上に手をついたまま身を起こすと恥ずかしさの境地から顔を見せられない喬久の手ぎりぎりまで顔を近付ける。 「ほら喬久、手下ろして。ちゃんと顔見せて?」  言いながら片手は尚も喬久の内腿を撫で回し続ける。その触れ方には悪意しか無く、明らかに蒼は喬久追い詰める為に敢えてその行為をしており、自ら覆い隠した視界の中、蒼の言葉だけが喬久の得られる数少ない感覚情報としてゆっくりと喬久の中に浸透していく。  喬久の意志で手を下ろさせなければ意味が無いので、蒼は固く閉ざされた指の奥に居る喬久を見つめる。喬久の頑なな心を開かせる為ならば何時間でも粘る覚悟を持っていた蒼だったが、予想外にその機会は早く訪れた。細く開けられた指の隙間からは喬久の表情を窺い知る事は出来なかったが、ようやく気持ちが落ち着いた喬久は指の隙間を開けると同時にゆっくりとその手を下ろしていく。口は真一文字に結ばれており、それが恥ずかしさ故から噛み締めたものであるという事は蒼にも分かった。  勘違いや空回り、そんな憤死しかねない羞恥で限界なのだろうと感じた蒼は、それでも手を下ろし蒼へ真っ直ぐに視線を返す喬久を改めて愛おしいと思った。涙を流す姿も羞恥で耳まで赤く染まる顔も、いち上司と部下という関係の延長線上では決して見る事が出来なかった。手を下ろしたその頬へ指先で触れてみると見た目通りほんの少し熱い。このままソファに押し倒して今度こそは真正面から喬久を見詰めて、まだ奥に隠れた表情を声を晒してみたいと願ってしまう。蒼は今度こそ順序を間違える訳にはいかなかった。体勢を直し喬久の隣に座り直すと、喬久が下ろした片手を手に取る。こんな意味を持ってこの手を取る日が来るとは思ってもいなかった。しかしその衝動に駆られた今もう二度とこの手を離すつもりはない。  蒼の唇が喬久の指先に触れる。まるでそれは神聖な儀式の様にも見え、喬久の思考回路は真っ白になり機能を停止する。誰かを好きになるという事がここまで感情が揺さぶられるものであるという事を喬久は初めて知った。その感情がいつから存在していたのか明確には断言出来なかったが、自覚した時には既に蒼という存在が喬久の世界での中心となっていた。体中がやけに熱くて、込み上がりそうになる涙を呑み込み必死に堪える。  唇を離し、見上げた蒼の双眸が喬久へと向けられる。 「色々と順番を間違えてしまったけど、改めて俺と付き合ってくれる?」  偽装恋人の関係はお互いに本物では無い事を知っていた。それでも構わないと思えていたのは他でもない相手がお互いであったからで、危機が過ぎ去った時点で解消される関係である事も厭わなかった。相手の事を知る度、意外な一面を見る度少しずつ、恐らく自覚も無いまま小さな気持ちが芽吹き始めていた。  こんな感情は初めてで、喬久にとってはこんな言葉を言われる事も初めてで、想定もしていなかった状況に咄嗟の言葉も出てこなかった。しかし喬久が伝えたい想いはたったひとつだった。  一世一代の勇気を出して声を振り絞った。焦りと緊張で胃がひっくり返りそうだった。それでも喬久はもう逃げる訳にはいかなかった。後悔は二度としたくない、今度こそ自分の本当の気持ちを蒼に伝えなければならなかった。 「――宜しく、っお願いします」
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