終章 最後の一線

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「だけど、お前の事騙し続けてた事には変わりないよな……ごめん」  伝える機会ならば幾らでもあった。蒼の部屋に喬久が訪問した時、蒼が喬久の自宅前まで行った日――。その好機を全て無為にしたのは蒼のエゴであり、実際には既にストーカーが存在していないのにも関わらず喬久の恋人という立場を利用し続けていた。  その行為がどれだけ喬久を傷付けるものであるのか蒼も気付いていた。それでも喬久に問われたならば素直に白状するつもりもあった。それが第三者からの悪意ある密告で無かったならば。  嘘が嫌いな喬久をこれ以上嘘で縛り付ける事は出来ない。誰かを想う気持ちは所詮エゴであり、蒼が幾ら喬久を想おうとも喬久の気持ちは初めから幼馴染へと向いていた。そんな事、最初から分かり切っていた事だった筈なのに――。  これで本当に最後にするから、少しでも長くふたりきりの時間を過ごさせて欲しい。そう願う蒼の指先が微かに震える。 「……蒼さん」  喬久の唇から紡がれる蒼の名前。名前を呼ばれる事もこれが最後になるかもしれない。蒼が動く様もその感情の機微も視線でずっと追い続けた喬久は頬に触れる蒼の手の上から自らの手を重ね、片方の手は掌側から皺をなぞるように指先を滑らせ、指の股に指先が触れて――そのまま両手で蒼の手を包み込む。  初めてではないはずなのに、まるでその言葉を口にする事が生まれて初めての経験であるかの様に動悸が落ち着かない。下がったはずの熱が再び上がったのかもしれない、手汗による気持ち悪さを蒼に与えてはいないだろうか、そんあ些末な事にすら気を取られつつ浅い呼吸を数度繰り返した後ひとつ大きな瞬きをゆっくりとした後蒼へと視線を送る。 「……俺、は蒼さんの事が好き、なんだと……思います」  蒼はそもそも異性愛者であり婚姻歴もある。ストーカーが居なくなったのなら前妻とよりを戻す事も、新たな配偶者を望む事も蒼の自由だった。我儘を言える身分で無い事は分かっているし、蒼を困らせるような我儘を言うつもりもなかった。蒼にとってはそれがただの偽装恋人だったのだとしても。もう伝えないまま迎える後悔だけは二度としたく無かった。 「でも喬久、お前は」 「確かにっ」  蒼の言葉を遮るように躊躇った指先を絡ませ蒼の手を握る。伝え方が分からない、何が正解なのかも分からない。好きという単語だけでは喬久の気持ちは蒼に伝わらない。 「確かに俺はか、っ、幼なじみの事が好きだって言いました。確かに言いましたけどっ……」  つい先日蒼の前で和己の事が好きだと言ったばかりで、今は蒼の事が好きだというのはどちらに対しても不義理になる。どちらの言葉も喬久にとっては嘘では無い。学生時代から和己を想い続けていたのは事実であるし、目の前の蒼に対し和己以上の感情を抱いているのも疑いようの無い事実だった。繋がる手だけが蒼とを繋ぐ唯一のものだった。もしこの手が解かれる事があるならば、それは蒼からの優しい拒絶でしかなかった。喬久の指は蒼へ縋るように折り曲げられ、蒼の指はぴくりとも動かない。 「蒼さん、こんなに忙しいのにあの日、あんな時間まで俺の事……心、配して待っててくれた」  今日のこのたった数時間だけでも、蒼が普段どれ程の激務をこなしているのかという事は喬久にも分かる。それでも蒼は喬久の前で仕事の愚痴ひとつ零す事は無かった。あの晩アパートの前に残されていた煙草の吸い殻、とても数分間とは思えない程に残されたその量、一体何時間蒼は忙しい中喬久の帰りをアパートの前で待ち続けていたのか。  これが最後になるのなら思い残す事無く蒼へ全てを伝えたいのに、胸の内から込み上がる感情が喬久の言葉を阻害する。気持ちばかりが逸り大切な言葉が一向に喉の奥から出て来ない。 「俺がいきなり此処に来た時だって、嫌な顔ひとつしないで家に入れてくれて……ちゃんと、俺に話そうとしてくれた……」  初めて喬久から声を掛けて蒼の部屋に来たあの日、蒼がとても嬉しそうな顔をしてくれていた事を今でも覚えている。その笑顔を凍り付かせてしまったのは他でも無い喬久自身の勝手な思い込みであり、呼び止める蒼の言葉も聞かないで走り去った。 「なのに、なのに俺は……」  悪いのは全て自分だと分かっている。言葉に出せず散ってしまった初恋も、信じきれなかった蒼の気持ちも。呆れられていても仕方が無い、ただ今度こそは伝えられずに終わらせたく無かった。たとえそれがエゴだとしても。 「蒼さんのこと、振り回してばっかで」  縋り付くように絡ませた手から力が抜ける。するりと喬久の手は重力に伴い滑り落ちるが、それは一度も蒼の手を握り返さなかったからだった。それでも喬久は滑り落ちるその手を腕の力で支えていた。指先の、僅かな先端で蒼の掌に触れたままゆっくりと、名残を惜しむように腕を下ろす。  もうダメなんだ、全てが遅すぎた。蒼の優しさにこれ以上頼り切ってはいけない。――ただあの晩、逃げるように八雲に呼ばれたホテルから帰宅した喬久にとっては、蒼の存在が何よりの救いであった事は疑いようの無い事実だった。 「それは違う喬久」  不意に視界の暗さが増したかと思えば、蒼の両腕は喬久の身体を抱き締めていた。同時に腕の片方が頭部にも回され、宥めるように喬久の頭を撫でる。緩みきった涙腺が崩壊してしまいそうなその蒼の優しさに、喬久の両手は行き場を無くしていた。  喬久の言葉を遮らないよう黙って聞いていた蒼だったが、全て聞き終わる前に身体が動いてしまった。初めて本心からの喬久の言葉を聞く事が出来た気がした。たったそれだけの言葉を口にするだけでも喬久にとっては初めてのLTの様に緊張した事だろう。大方一番気にしているのは同性同士という点と、元々自分が結婚経験のある異性愛者だという事だろうとあたりを付けた蒼はこれ以上ないまでの勇気を振り絞った喬久を落ち着かせるようにゆっくりと背中を擦る。 「お前の家に行ったのも、俺がやりたくてやった事だ。俺はお前に振り回されたなんて思った事はないんだよ」  直接耳元で伝えられる言葉に喬久の肩がぴくりと震える。それでも蒼は優しいから自分の為を思ってそう言ってくれているだけなのかもしれないという不安は拭いきれなかった。縋っても良いのかこの優しい腕に、また何か蒼のこの優しさに思い違いをしてしまってはいないか、それでも蒼の腕は暖かくて優しくて、安心出来た。 「お前にストーカーの事ちゃんと話さなかったのも俺の責任だし、何より弱ってるお前に付け込んだのは俺の方なんだから」 「付け込まれたとかっ……俺はそんな風に思ってないです……っ」  蒼の腕の中で喬久は頭を左右に振る。喬久も子供では無いので嫌な事は嫌と言えるし、その一件で蒼との関係を続けられないと感じたならば認識の齟齬を擦り合わせる事も出来た。蒼の背中に回す事も出来た両手を喬久は敢えてふたりの身体の間へと滑り込ませそっと蒼の胸元を押し返す。  喬久から離れて欲しいという意図を汲み取った蒼は抱き締めていた腕から喬久を解放する。喬久は蒼のシャツを掴み俯いたままひとつひとつ言葉を慎重に選んで蒼へ渡していく。 「……蒼さんが、……俺の事どんだけ大切に思ってくれてるか、俺にももう分かってます」  蒼は優しいから、相手を傷付けないようにその場限りの社交辞令を言う事もあるかもしれない。しかし少なくとも自分と蒼の距離感は社交辞令で済ませられる程度の関係では無い事、他の誰かとの事など知る由もないが、自分の前に居る蒼はそこで社交辞令として心にも無い言葉で片付けようとする人間では無いという事を喬久は誰よりも一番良く分かっていた。  初めから蒼の言葉に嘘はひとつもなく、ストーカーが居たという事も、八雲に嫉妬したという事も、好きだと告げられた言葉も全てが紛れもない蒼の本当の気持ちだった。だからこそ蒼を信じきれなかった自分自身を一番許せない。蒼のシャツを掴む喬久の手に次から次へと涙が零れ落ちる。 「俺は何ひとつ蒼さんに返せてない……」 「返、さっ……」  咄嗟に喬久の両腕を掴む蒼だったが、潔癖過ぎる喬久が一度決めた事は中々覆さない厄介な存在である事を知っている蒼は言葉をそのまま呑み込んだ。決して見返りを求めていた訳では無いが、見返りを求めずに与えるものが愛であるという事を喬久が知るのはまだ先の事になりそうだった。  今この瞬間がふたりにとっての今後を決める大事な岐路である事は蒼にも分かっていたが、喬久のこの偏屈な思考回路を何とかしない限り先に進める気がしなかった。俯く喬久の顎に手を掛け上を向かせると目に浮かぶ涙が寝室のライトに反射する。実際返されても困るものではあるが、喬久がどうしても返したいというのならその願いを叶えてみせようと蒼の中にある悪戯心が僅かに疼く。 「――喬久がそう思うなら、納得出来る返し方、して貰おうかな」
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