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4
ぼんやりした頭で電車を降りる。すっかり外は暗くなっていて、バスやタクシーのヘッドライトが眩しかった。やけに車の通りが激しい。
愛海は振り返って駅名を見た。
――あれ。ここ、どこ?
スマートフォンなんて持っていない。慌てて元の駅に戻ろうと改札に向かったけれど、通ろうとした時に派手なピンポーンという音が鳴ってしまう。うまく読めなかったのかと思って再度タッチするけれど、また音が鳴る。ああ。SUICAの残高不足だ。
駅員がこちらを覗き込むように見ている。愛海の後ろには人が並んでいる。
苦笑を浮かべ、愛海はその場から慌てて逃げ出した。
――そんなに乗り越した訳じゃないだろう。
そう思って、愛海は歩道を歩き始めた。子どもの足でどれくらいだろう。母親の番号も、父親の番号も知らない。家の番号くらいは覚えておきなさいと言われて、どこかに書いておいたと思うけれど、ランドセルの中には教科書とノートが収まっているだけだった。今日に限って財布の入ったポーチは置いてきてしまっているし、何だか涙が出てくる。
「どうか、しましたか」
それはガブリエルのような片言加減のある日本語だった。自転車に乗ったそのグレイヘアのおじさんは外国人っぽく見えるが、ガブリエルのようににこにこと笑顔を浮かべてはいない。
「電車を乗り過ごしてしまい、道に迷いました。家まで歩いて帰ろうと思ったんです」
「どこまで?」
街の名前を告げるとおじさんは「ひとまずうちに来なさい」と言う。
怪しい人に付いていってはいけない。それは愛海のような年齢でなくてもよく分かっていることだ。それでもこの時の愛海は藁にもすがりたい心境だったので、ついその言葉を握ってしまった。
連れて行かれた建物は『家族の箱』と大きな歪んだ日本語で書かれている看板が付いていた。
中にはよちよち歩きをしている小さな子どもから愛海よりずっと大きな、高校生くらいだろうか、そんな子までいる。机でドリルを広げている子がいれば、小さなテレビの前では奪い合うようにしてゲームをしている子もいる。運動用のマットの上で逆立ちをしたり、かと思えば隅っこでは絵本を小さな子に読んであげている愛海くらいの歳の子もいた。
学童保育にしては何ともバラエティに富んでいる。
「これが家族の箱?」
愛海がそれまでに思い描いていた家族像から随分とかけ離れた光景だったので、思わずそんな呟きが漏れてしまった。グレイヘアの男性は「そうだよ」と頷き、それから背の高い一人の男子を呼びつけ、しばらく愛海の面倒を見てあげて欲しいと頼んだ。
「何か飲む?」
ぶっきらぼうな言い方だったが恐さを感じなかったので、愛海は「お茶でいいです」と答えると「熱いの? 冷たいの? 温いの?」とわざわざ尋ねてくれた。
「じゃ、熱いの」
別に体が冷えていた訳じゃないけれど、何となくその方が緊張が緩む気がしたのだ。
「ここ、座ってて」
案内された丸机にはマジックでバカとかオシッコと落書きされていた。子どもだけを集めた動物園を作ったらちょうどこんな感じだろうか。
「熱いよ」
そう言って目の前に置かれた湯呑みからは、もうもうと白く湯気が上がっている。確かに熱いだろう。口を近づけるととてもすぐには飲めないことが分かった。
「あの、ここって何ですか」
それでも一口無理矢理に啜ると、愛海はようやく一番の疑問をその男子にぶつける。
「何って、ポールさんのフリースクールだよ。そう聞かなかった?」
「何も聞いてないけど」
そう答えると「あぁ」とため息がちに説明してくれた。
フリースクールというのは主に不登校になったり、何か事情を抱えて学校に行けない子どもたちが通う、第二の学校らしい。誠也と名乗ったその男子も本当は今年から中学生だけれど、学校には一度も顔を出していないそうだ。
そういう場所があるというのは聞いたことはあるし、不登校になった何人かが通っているという噂も耳に入ってくる。けれど実際に目にすると、何とも不思議な所だ。少なくとも教室とは違う。休み時間の空気が近いと言えなくもないけれど、もっと雑多で幅が広い。公園や児童館、ショッピングモールのフリースペースなんかも似ている。ただそういう場所よりは全体を通して一つの空気感みたいなものがあった。
「あの、どうして“家族の箱”なんですか」
「知らない。ポールさんがそう名付けただけで、俺は別に家族だなんて思ってないし、自分の家族が一応あるし」
「じゃあ誠也さんにとって家族って何ですか」
「何だよそれ」
実に面倒そうに愛海を見た。それでも「そうだな」と腕組みをしてしばらく考え込み、彼は答えてくれた。
「飲んだくれで競馬とパチンコばっかしてる男に、ふらふらとすぐ家を出ていっては警察の世話になる女。面倒でどうしようもない奴だけど、一緒に暮らしてる。俺にとって家族はそれだけのもんだ。でもさ、ポールさんはよく言うんだよね。本当に嫌ならさっさと出ていくべきだって。無理して我慢してまで一緒にいるのは家族じゃないって。ここはさ、来る人間を拒まない。かといって、嫌なら来なくていいし、疲れたら休めばいいし、逆に家庭が嫌ならこっちで寝泊まりすればいいって。そういう本物じゃないかも知れないけれど、もう一つの家族として使ってくれればいい場所なんだって。いつもそう言ってくれる。だから気軽に足を運べるし、なんかここにいる奴らってちょっと肩の力が抜けてるだろ?」
見渡した小学校の教室より少しだけ広い箱の中に、色々な表情が詰まっていた。でもみんなそれなりに楽しそうだ。見ているうちに喧嘩を始めたり、泣き出したり、バカ笑いをしていたりする子たちもいたけれど、でもどこか楽しい。それは少し前まで愛海が自分の家で感じていた空気と同じだった。
確かにここにも“家族”がある、と感じた。
それから誠也の手作りだというシンプルな塩味のクッキーを貰い、三十分ほどポールさんについての、どうでもいいくだらない、けれどちょっと笑ってしまうエピソードを聞いていると、玄関先にガブリエルと母が姿を見せた。
「愛海、大丈夫?」
「マナミ!」
「ごめんなさい、お母さん……それに、お父さん」
「いいのよ。無事だったから」
二人に囲まれ、一斉に視線が愛海に集まっていた。それに気づいて少し恥ずかしくなったけれど、愛海はちょこんと頭を下げると「お騒がせしました」と口にしてから、こう言った。
「これがわたしの家族です」
※
「――と、こんな風に家族には色々な形があり、籍が入っているとかいないとか、血が繋がっているとか繋がっていないとか、そういうこととは関係なく、目に見えないけれどちゃんとそこに繋がっているなと思えるものが今のわたしにとっては“家族”と呼ぶものなんだ、と思いました」
自分の書いた作文を同級生たちの前で読む。こんなに恥さらしなことはあるだろうか。それでも妙なもので、全部を読み終えると何だか誇らしくもあった。
「岩城さん。素晴らしい家族ですね。さ、みんな拍手」
中村女史は珍しく笑みを浮かべると、一際大きな拍手をしてくれた。(了)
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