夕方の彼

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「予想通り。ぴったり15分」 「え?」 「ちょうどいいや。マイ、下のコンビニでコーヒー買ってきてよ」 それから随分と落ち着き払った口調で、州は言った。 改めて周囲を見回してみると、彼のコートはきちんとハンガーにかけられ、小さな机には、目一杯参考書が開かれている。 それらを目にして状況を噛み砕くと、顔が熱くなってきた。 「環がインフルエンザになったから、3日前からここに隔離されてんの。勉強は捗るけど、退屈なんだよな」 「騙したってこと?」 震える拳をそっとポケットの中に入れるが、感情はおさまるどころか昂っていく。 彼が起き上がる、シーツの擦れる音が響いた。 「俺、約束放ってきたんだよ。それなのに……」 「ああ、あの——駅のベンチの人ね」 枚田は、目をつぶった。 やはりそうだった。 あの時はこちらに目もくれなかったくせに、しっかりと認識していたのだ。 「俺がどんな気持ちで来たと————」 「チョコ貰いそびれて怒ってんだな、マイは」 枚田のなかにあった小さな火は、瞬発的に膨らんで、そしてふたたび細くなる。 それから、ふっと消えた。 もういい、本当にどうだっていい。 「州は最低だよ」 「なに怒ってんの」 枚田は彼の顔を見ずに踵を返した。 これが見納めになるかもしれないとも思ったが、振り向く気力もない。 「これ以上付き合いきれない。俺にもう関わらないで」 それからドアを閉め、フロアカーペットの廊下を進んだ。 彼は後を追ってはこなかった。 エレベーターに乗り、スマートフォンを取り出すと、柿木からは着信とメッセージが数件入っていた。 いますぐにフォローを入れれば、まだ間に合う。 事情を話せば、彼女ならわかってくれる。 そんな思いは、頭を掠めただけで、あっという間に吐き出されていった。 スマートフォンの電源を切って、ポケットにしまう。 緩んだスニーカーの紐に目が留まったが、直すことすら億劫で、枚田はそのまま一歩を踏み出した。
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