モラトリアム

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怒りはわいてこない。 はっきりと言われたいから、佐竹に相談をしたのだ。彼もそれをわかっているから、あえて遠回しな物言いを避けたのだろう。 枚田は揚がったエビフライを見下ろして、ため息とまでいかない、長い息を吐いた。 州のいない世界とは、どんなものなのだろう。 彼と出会う前、そこがどんな色だったのか。なにを中心に回っていたのか。 今見ているこの世界が何色なのかすらわからないのに、幼少期のそれを思い出せるはずもない。 州がいる世界で、ただひとつわかるのは———— 換気扇を切ると、彼との世界を結ぶ甘いにおいがわき立って、枚田は振り返った。 いつのまにか州が立っていた。 「いつ帰ったの?」 「ずっといたよ。電話してたから声はかけなかったけど」 バックパックを下ろしながら彼が放ったひと言に、ふと焦った。 換気扇と油の音、それから佐竹の話し声で、州の気配にまったく気づかなかった。 「エビフライ?」 彼は枚田の背後に回り、皿の中を覗き込んだ。 「そう。作ったの」 「なんで?」 「なんでって、食べたくなったから」 州はふうんと相槌を打つと、皿からひとつを摘んで齧った。 味に関する感想が返ってくることはなく、彼はほとんど身をかじった尻尾部分を、枚田の唇に押し付けてきた。 食えということらしい。 「あー、内定祝いでエビフライにしたの?」 「え?」 「おめでとう、レッドリスト君」 枚田は、言葉を繕うために、急いでエビの尻尾を噛み砕いた。しかしそれを待たずに、彼は体を離し、隣のシンクでまず手を洗った。 それからリビングに移動すると慌ただしくPCを起動し、操作し始める。 そこに枚田が口を挟む隙はなく、彼なりの明確な意思を感じた。 「俺、行かないから」 すると、彼はキーボードを叩く手をわずかの間だけ止めて、こう返してきた。 「なんで? ほかに行きたいところあるの?」 「そういうわけじゃないけど……」 「じゃあ行け」 それから再び、キーボードを叩く。 その規則的なリズムに怒りを覚え、枚田は彼の前に立ちはだかった。 「州はそれでいいの?」 「俺だって今選考進んでるところ外資だし、海外出張も多い。ずっと一緒なんて、どっちみち不可能だろ」 思わず肩を掴むと、州は驚いたように見上げてきた。 「だってどうするの。俺がいなかったら——」 「大丈夫だよ。なんとかする」 その発言が強がりであったならば、枚田の気持ちもいくらか違っただろう。 しかし、彼は冷静そのものだった。 だから枚田は、肩にかけた手の力をつい強めてしまった。薄い体は少し押しただけでよろめき、倒れる。
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