マイのおかげ

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「でも、変だな……」 環はテーブルに手をついて上体を預けた。 半袖のシャツが陽にさらされて、腕のシルエットがうっすらと透けている。 骨格や肌質は、兄にそっくりだ。 「まあでも、最初は半量ずつ短期間で打つみたいだから、まだ発情期の名残りみたいなものがあるのかな? 適量打てるようになったら、そのうち完全になくなると思うけど……」 発情期が、なくなる。 黙ったままでいる枚田を、環は不思議に思ったらしい。 「あれ、嬉しくないの?」 「もちろん嬉しいよ」 体の悩みから解放される。やっと訪れた友の自由を、喜ばないはずがない。 ただそれは、枚田の存在意義がなくなるということでもあった。 「俺、就職で名古屋に行くことになるかもしれない」 「そうなの?」 「州は行けよってあっさり言うんだ。いままでは俺が離れようとすると怒ってたのにさ。でも今の話でなんとなくわかった。たぶんもう、俺がそばにいる必要がなくなったってことなんだよな」 弱音を吐くつもりなどなかったのに、一度流れ出すともう止まらなかった。 まさかそう来るとは思ってなかったのだろう。環は驚いたように、目を見開いた。 「マイ、それは違うよ」 力無く笑う枚田の肩に、小さな手を置いた。 「州ちゃんがマイと離れたいわけない。でも……州ちゃんなりに責任を感じてるんだと思うよ? マイを長い間、縛りつけちゃったこと」 「俺はそれでもいいって言った。不満なんてないよ」 「いくらマイがそう言ってても、州ちゃんはそれじゃだめだって思ったんじゃないかな。もう子どもじゃないんだし、自分のエゴで束縛するわけにはいかないって……」 環の手のひら——すなわち同情によるやわらかな熱が、肩から鎖骨へと広がっていく。 息を吸って膨れた胸に悲しみが挟まり、吐いても萎むことはなかった。 「だったら、州は勝手だよ……」 「うん。そうだね」 環は背中を撫でてから、そっと手を離した。 「でも、マイがこうやって数年間、そばにいてくれたおかげだと思う。だから州ちゃん、やっとマイを自由にしてあげる決心がついたんじゃないかな」 そんな綺麗ごとにまとめられても、素直に受け止められない。 言い方を変えただけで、所詮は———— 「でも結局のところ、抑制剤があれば、俺はもう用済みなんだよ……」 背後で環がため息を吐いた。優しい慰めは意味がないという結論に至ったのだろう。
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