生前

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「ホテル来る? 俺の……」 「え?」 「いや、明日から出張なら無理か! どこだっけ?」 「上海だよ」 「そうだ、上海だ。カニの——」 彼に拒絶されるのが恐ろしくて、空気砲のように中身のない言葉ばかりが飛び出てくる。 州は口角を少し上げて、最低限の相槌を打つだけだった。 「でも、びっくりした。まさか会えると思ってなかったから……」 スーツ越しに触れただけで、もう抱きしめたくてたまらなくなる。 こぶしを握って、スラックスのポケットに突っ込むと、たまたま名刺入れにふれた。 「あ、そうだ。せっかくだから……」 それから一枚取り出して差し出す。 州はそれを右手だけで受け取り、まじまじと見つめた。 「改めて字面見るとすごいな」 「生粋のしわしわネームだからね」 名刺は斜体の入った太めの明朝体を基調とした、お世辞にもオシャレとはいえないデザインだ。 「枚田松造」という名前にふさわしいといえばふさわしい名刺だった。 「松ってつくのが、お年寄りっぽいのかな。メールだけやりとりしてた人と初めて会った時とかにも、よく驚かれる。てっきりベテランおじいちゃんかと思ってたけど、お若いんですねーって」 彼は初めて声に出して笑った。 それから裏をちらりと見て、胸ポケットにしまう。 「そろそろ戻れよ。またブースが混んできたぞ」 振り返ると、いつのまにか展示品の前に人だかりができている。枚田は後ろ髪を引かれながらも、つま先の向きを変えた。 「お昼、一緒に食べる時間ない? 俺もうすぐ休憩だから待っててよ」 州は微笑んだまま返事をしなかった。 その態度にふと不安を感じて、指先に触れた。 一度強く握り、指の根元から爪先までを撫でる。 「後で連絡するから、必ず出て」 それから、時間をかけて離すと、ゆっくりとその場を離れる。 「マイ」 2、3歩進むと、彼からふと名前を呼ばれた。 州はやはり、かすかに微笑んでいた。腕組みをして、壁に寄りかかる姿は、社会に揉まれてくたびれて見えた。 「頑張れよ」 彼ははっきりとそう言った。 目には力がなかったが、口角にはこちらへの好意がしっかりと乗っているようにも思えた。 それをどうにか支えにして、枚田も笑みを繕う。 「うん。州もね」 片手をひらりとあげて振り、持ち場に戻る。 接客が終わってみると、州はもういなかった。 ——こうして、枚田の知っている州は死んだ。 生まれ変わった彼は、もう別の人のものになっていたのだった。
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