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裏切り
高い天井に取り付けられたガラス細工のような照明に、行き交う人々が反射し、光を放つ。
枚田は、目の前の騒々しさから逃れるように上を向き、その光の穏やかさにしばし安息を求めた。
「松君はどっちがいいと思う?」
映水の高い声が耳に滑り込んできて、枚田は慌てて目線を戻した。
「映水の好きなほうでいいよ」
応急処置のような回答だが、彼女は満足したらしい。ホテルの担当者も安堵したような笑みを浮かべ、ふたたび談笑し始めた。
わざわざ許諾を得なくとも、好きなようにしたらいいと思う。こちらからの希望など、ひとつもないのだから。
枚田は、ラウンジの中央に置かれている自動演奏のグランドピアノに目をとめながら思った。
——映水とは同僚で、枚田が東京支社に転勤になってから知り合った。
会社の忘年会で話したことをきっかけに食事をするようになり、流されるままなんとなく交際がスタートしたのだった。
これまで、彼女の要望には極力応えてきたし、決して不誠実な対応をしてきたわけではない。だが、どこか身の入らない態度を彼女なりに案じていたのかもしれない。
そうでなければ「そろそろ結婚を考えたほうがいいと思うんだけど」と言われて「そうだね」と返事しただけの今の段階——つまり結納はおろか、互いの両親への挨拶も済ませていないうちから、結婚式場の下見を予約したりしないだろう。
今日は日本橋の五つ星ホテル、来週は青山のバンケットルーム、再来週は麻布のレストランと、知らないうちに次々と予定を埋められていた。
リゾートウェディングも気になると言っていたから、そのうちに旅行がてら軽井沢あたりにも連れ回されるに違いない。
たしかに、軸足のつかないままここまで来てしまった自覚はある。特に、州がいなくなってからは、目の前が常にぶれたままだ。
それが申し訳なくもあり、結果的に彼女の言いなりになることでなんとか罪悪感を埋めようとしている。
我ながらどうしようもないと、枚田は思う。
和装とドレス。
飾る花の色。
フレンチか懐石か。
時折投げかけられる質問に、どちらでもいいと答えながら——めまいのする、輪郭の曖昧な世界へと吸い込まれていく。
しかし、完全にぼやけきる前に、右腿を振動が伝った。
ただのスマートフォンの通知であることはたしかだが、なぜだか枚田をはっきりと覚醒させ、現実へと引き戻した。
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