422人が本棚に入れています
本棚に追加
/193ページ
「遅いよ。早く行こう」
躊躇しながらも席まで戻ると、彼女は口を尖らせて手招きをしてきた。
ごく短時間のうちに生じた枚田のこころの揺らぎなど知る由もなく、チャペルへと続く連絡通路の方へと向かいながら、担当者と談笑している。
その一歩後をついていきながら、さまざまな思いがめぐった。
映水を傷つけたくはない。しかしもう、どういう形をとっても彼女を裏切っていることに変わりはない。
裏切り方が違うだけだ。それならば————
枚田を後押しするかのような香りが漂ってきたのは、そのすぐ後だった。
この鼻先に残る甘さをよく知っている。
「あれ、なんかいい匂いしますね」
映水の言葉に便乗するように枚田が鼻を鳴らしていると、担当者の女性は、壁に等間隔に設置されたニッチを指した。
そのひとつひとつに、小さな香炉が置かれている。
「金木犀のアロマです。ここからチャペルまで続いているんですよ」
金木犀の精油なんてあるんですねー
私もアロマ好きなんですけど、ラベンダーとかヒノキとか、オレンジとか無難なのばかりでー
相槌を打つ映水の声と金木犀の香りが、ぶつかり合う。
迷いは踏み固まるどころか、蹴散らされ、広がっていった。
「映水」
連絡通路を渡り切り、チャペルの前まできた時、枚田はついに頭を下げた。
「ごめん」
ブーツのつま先からも、困惑はじゅうぶんに伝わってくる。
しかし、この匂いに包まれたまま、チャペルまで踏み進めることは、できそうになかった。
「本当に申し訳ないです」
「なにいきなり。どうしたの?」
「映水とは結婚できない」
瞬間、空気が凍りつく。
しかし、どうすれば誠意を見せられるのかが、もうわからなかった。
映水から言葉はない。おそらく、想定外の事態に唖然としているのだろう。
「ほんとに——なんて詫びていいかわからない。ごめんなさい」
何度も深々と頭を下げたが、彼女の顔は直視できなかった。
俯いたまま踵を返し、ふたたびエントランスへと向かった。
金木犀の香りが、風にのってまとわりつく。
タイムリミットまでは、あと20分もあった。
最初のコメントを投稿しよう!