422人が本棚に入れています
本棚に追加
/193ページ
「わかった」
まだこちらがなにも切り出していないのに、州は静かに結論を出した。
彼の視線が動くと同時に、椅子が引かれる。
「州、待……」
州が立ち上がって席から離れたそのとき、ちょうど化粧室のドアが開いて映水が出てきた。
彼女が目の前に座ってもまだ、店の外へと出ていった彼から目が離せない。
どうしたのという声。
つられて映水が同じ方を向いたときには、すでに州の姿はなかった。
彼が見切れてからは、激しい感情がこめかみを打った。
映水の声も姿もぼやけ、世界の輪郭はまた曖昧になりかけている。
そのすべてが滲んでしまう前に、枚田は声を上げた。
「ごめん。別れてください」
久々に腹の底から出した本音。声の鮮明さに、彼女が驚いているのがわかった。
「俺は自分に正直に生きたいです。地獄に落ちる覚悟もできてます」
「松君……」
「本当にごめんなさい。あなたとはもう、二度と会いません」
それから伝票を掴んで席を立った。
罪悪感は焦りにかき消され、枚田に一切の痛みの余地も与えなかった。
——店から出て、あたりを見回したが、州の姿はなかった。
映水と鉢合わせしないようそのままワンブロック先まで歩き、スマートフォンを取り出す。
州に電話をかけてみるものの、電源が切られているようだ。さらに、メッセージアプリのアカウントも削除されていた。
「なんだよ、もう……」
拍子抜けして、ため息がしなしなと揺れた。
またしても、手に入れる前に失ってしまったのだろうか——
枚田はとりあえずその場にしゃがみ込んで、呼吸を整えた。指先が震えている。
それでも、ゆっくりと肺に取り入れた空気は冷たく、体の隅々にまで清々しく行き渡っている。
この選択をしたことに、後悔はなかった。
たとえ交わらないままでも、お互いにとって、唯一の相手であることに変わりはない——それを実感できたからだった。
いつかまたチャンスがめぐってくるその時までは、ずっと手ぶらでいるのが、自分の性には合っているのだろう。
「あーあ」
枚田は身軽になった肩を回し、ゆっくりと立ち上がった。
世界はまた輪郭を取り戻し、ビルの隙間から覗く空は澄んでいる。
最初のコメントを投稿しよう!