馥郁の午後

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「ふたりで辞めて、どうすんの」 熱が引くと、枚田は恥じらいを埋めるかのように尋ねた。 彼は、手に付着した体液を枚田の腹になすりつけながら、首を傾げる。 「そうだなぁ。もうすぐ桜が咲くから、目黒川沿いで路面販売でもするか」 たった今思いついたに違いなかった。 「なに売るわけ」 「桜餅とか?」 「桜散ったらどうするの」 州は鼻で笑い、寝返りを打ってしまった。 「じゃあ海辺でカフェ開く」 「それ、サラリーマンの現実逃避の定番」 州が寝転んだまま髪をかきあげる。形のよい、丸い額に、漏れた夕日が当たった。 「俺にはもう、逃避したい現実なんてないけどな」 それから、彼はゆっくりと目を瞑った。そのまぶたに、幸福を読み取る。 「このまま穏やかに、人生の午後を過ごすよ」 「午後は早すぎるんじゃない」 枚田は苦笑いした。 まだ二十代後半だ。人生、折り返してさえいない。 「前半頑張って疲れたし、人生の目標は達成したようなもんだからな。俺にとってはもう、あとは長い午後だ」 目標という言葉に合わせるように、頬をひと撫でしてきた。 「じゃあ、午後はずっと一緒にいるよ」 枚田はうなじについたふたつの跡を指でたどり、その苦味と甘味、両方を反芻する。 人生を目標で区切るとするならば、自分だってもう午後なのだ。 安心しきったように体を委ねてくる州の、その薄い肩を優しく抱き寄せながら——本当の平穏を味わう。 不自然に平らにしたものではない、少し歪さを残した、ずっと手に入れたかったもの。 枚田はそれから、少しカーテンを開けて光を入れた。 まろやかな午後の陽光と、ほのかに漂う金木犀の香り。 寄田が教えてくれなければ、この香りは今ほど愛おしく感じられなかったかもしれない。 いずれ彼にも恩返しをしなくてはならないと思った。 ——州の髪をかき分け、ふたたびその丸い額に触れる。 小さなふたりの新居の一角で、枚田はその馥郁とした午後に酔いしれた。 完
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