逃避行

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* その朝、インターフォンのモニターに環の顔が映し出された時から、嫌な予感がしていた。 まだ未就学児である彼が、枚田を迎えに来るはずがないのだ。 環はおそらく目一杯背伸びをして、大きな瞳で画面を覗き込んでいる。まだ幼いわりに落ち着いた少年だったが、無表情なのが妙に不気味だった。 枚田が慌ててドアを開けた時、彼は挨拶よりも先に園服のポケットから、一枚の紙を取り出した。 「これ何?」 自由帳を切り離したものと思われる、四角く折り畳まれた紙は、焦りのあまりうまく開封できなかった。 やっと開いた紙の中は、ほとんどが余白だった。 ただ、中央に筆圧の弱い端正な文字でちっぽりと 「ごめん。やっぱり家出する。8時半までへび公園で待つ」 そう書いてあった。 枚田がその場にへたり込むと、環が背中を撫でてきた。その手のひらには、慰めと、こちらに対する期待が乗っていた。 環はまだ幼いながらに、すべてを把握し、託され、使命を全うしようとしている。 兄を連れ戻すことができるのは、枚田だけだということもわかっているのだろう。 「パパとママには言うなって。マイに渡せって言われた」 環は、州の影響で、枚田のことを呼び捨てにする。 「州ちゃんのことお願いしていい?」 「お願いっていわれても……」 大きな瞳は動じることなく、こちらを真っ直ぐに捉えている。 幼稚園児に圧され、狼狽えてしまうのが我ながら情けない。 「州ちゃんがいなくなったら、やだもん」 それでも枚田が黙っていると、環の目からとうとう涙が溢れ出した。 白石兄弟の絆は強い。彼らは両親よりも互いを頼り、優先し、愛おしむ。ブラコンという言葉では片付けられないほどに、しっかりと結びついていた。 枚田にも四つ違いの姉がいるが、邪険にされたり使い走りをさせられるばかりで、仲がいいとは言い難い。 だから、州と環を目の当たりにした時は衝撃を受けた。こんな美しき兄弟愛が現実に存在するだなんて、想像すらしていなかったのだ。 「わかったから。今からへび公園に行ってみるから」 環がようやく顔を上げた。 「ほんと?」 「うん。州をちゃんと連れ戻すから、環は心配しないでもう家に戻りな」 涙を拭ってやると、一度だけしっかりと頷いた。 枚田は環を家の前まで送ってやってから、いつも通りランドセルを背負って家を出た。 大通りを、いつもとは違う方向に曲がる。へび公園は学校とは真逆に位置していた。
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