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「じゃあ、試しに噛んでみる?」
彼はダッフルコートの留め具を外し、うなじを露わにする。枚田はその白さに目が眩み、何度か目を瞬かせた。
「えっ、それはまだ早いよ」
「なんで。どうせ結婚するんだろ?」
「え!? うん、そうだけど……」
彼が結婚を受け入れていたこと。
その事実は、静かな感動を呼び寄せた。
枚田は彼の襟足に触れた。毛先を指で撫でると、くすぐったそうに身を捩る。
肌の白さ、その首の細さに胸がざわめいて、自分がαなのだということを再認識した。
「早く」
州に催促されて、枚田は彼のうなじに恐る恐る歯を立てた。
犬歯が、皮膚に食い込む。
枚田が怯んでいると、彼は声を張った。
「もっと強くして」
煽られるまま、力を込めた。彼の吐息を感じると、恐怖はふしぎな高揚に塗り替えられた。
ゆっくり唇を離し、うっすらとついた歯型を指でなぞった。赤くはなっているが、流血はしていないようだ。
「こんなんでいいの?」
「わかんない。でも州に怪我させるわけにいかないし」
彼は吹き出して、それからうなじに自らの手を添え、儀式の痕跡をたどった。
枚田が仕入れたのは、あくまで概念的な情報だけで、実際にどういうシチュエーションでどの程度の強さで噛めばいいのかなど、詳細まではわからなかった。
しかし、つかの間の家出と、特別な儀式の真似事は、ふたりの関係を今までとは違うものにした。
「州」
枚田は彼に寄り添いたくなり、隣に並んで手を取った。
それは彼も同じなのか、素直に握り返してくれる。強固な秘密をほぐすのは、今しかないと思った。
「夫として心配だから聞くけど、積田先生となにかあった?」
緊張を解くため、手のひらを揉んでやる。州は甘えるように、肩に首をもたれてきた。
「俺ね、見ちゃったんだ。夏に保健室で、先生が州の足を舐めてるとこ。ああいうの、いつからされてるの?」
すると、ついに州はしとしと泣き出した。
声は上げず、時折鼻を啜るだけだったが、彼の悔恨は充分に伝わってきた。
「展示物壊して、居残りさせられた時……」
ああやっぱり。
枚田はただただ、自分の不甲斐なさに打ちのめされそうになった。
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