予兆

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駅の改札を抜け、いつもの帰り道である細い路地に入ると、州は一区切りとばかりに、息をひとつ吐いた。 「北中の奴ってろくでもないな」 「うん。テニス部の連中は特に柄悪くて……」 「まぁ、金渡しとけば黙ってるだろ」 州は枚田のほうを一瞬見てから、ふたたび歩き出した。 「州、ごめん……」 「いいよ」 「お金、弁償する」 目視のかぎりでは少なくとも、3万円は落ちていたはずだ。 お年玉をまとめれば、返済できない額ではなかった。 「いいって。どうせあんまり使わないから」 「でも」 「その代わり、ちゃんと最後まで頑張ってから引退しろ。しょうもない辞め方するな」 腕組みをしながら、優しい表情を浮かべる州は、西陽の演出も手伝って、一段と凛々しく見えた。 枚田はふと、小学生のころの苦い記憶——展示物を壊してしまった時を思い出す。 こちらをかばい、罪を被った彼の横顔が、今の表情と被ったのだった。 「久々に現金下ろしちゃったよ。あいつらのせいで手数料かかって腹立つ」 「手数料は気にするんだ……」 枚田が突っ込むと、彼に足蹴りをされた。 返済についてこれ以上食い下がると怒り出しかねないから、とりあえずこの件は引っ込めておく。 ——彼とは何ターンか冗談を繰り返すうちに、すっかり普段通りになった。 たわいもない話をしながら、金木犀の植えられた住宅地の、いつものブロックを曲がる。 「マイ」 いざ家が見えてくると、州がなにかを思い出したように、ふと足を止めた。 「どうしたの?」 その表情が固いように見えたので、緩み切ったあらゆるものが、また一気に引き締まる。 「さっき、あいつが言ってたこと……マイも思ってた?」 彼は唐突に、そんなことを言った。 質問の意味を、すぐには理解することができなかった。 あいつとは、つまり—— 「俺、なんか匂いする?」 言いながら、服を摘んで自身の胸元を嗅いでいる。 枚田は慌てて、首を横に振った。 「しないよ。思ったことないから大丈夫」 「そう?」 「あんなのただの嫌味だから、気にすることないって」 しかし、なぜか州の表情は晴れない。 それを見ていたら、枚田はまた、自分が言葉選びを間違えてしまったのかと焦った。 「あ、いいにおいはするよ。俺みたいな汗臭いのじゃなくて」 「どんなにおい?」 「金木犀みたいな——甘いにおい」 彼は無表情のまま、こちらを見つめている。 それから、微かに笑った。 しかしそれは、安堵や可笑しさからくるものではない気がした。 「まあいいや。早く家入ろ」 「あ、うん」 先行する彼の後を、枚田は慌てて追いかけた。
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