裏面

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✳︎ 枚田だって、心配していなかったわけではない。 ただ、環に誘われてもなお、部屋に行くことを躊躇したのは、あの状態の州に会うのが怖かったからだ。 さまざまな匂い、感情、記憶がひしめき合う室内に入ることが。 今のこのメンタルで、欲求を持て余したこの体で——— だから枚田は、玄関の前に立ったとき、環に気づかれないようにそっと気合いを入れた。 「様子見たら、すぐ帰るからね」 「うん」 顔を見たら、立ったまま少し話をする。 長居はせずに、10分ほどで部屋を出れば問題ない。 シミュレーションをしながら、廊下を歩いた。 しかし、先導する環の足は、州の部屋に到達する手前で止まってしまった。 彼の部屋から、かすかに話し声が漏れてくる。 どうやら対話相手は母親らしかった。 「いつまでこんなのが続くんだよ!」 瞬間、州の荒ぶった声が響いてきて、枚田は目を見開いた。 彼がここまで感情を露わにした場面に、居合わせたことがなかったからだ。 母親のなだめる声。それを振り解く州の気配。 きっと、このやりとりは日常的に繰り返されているのだろう。彼らの口ぶりと、環の様子でなんとなく悟った。 「勉強だって止まるし、テストだって……。大人になったらどうすればいいの。発情するたびに仕事も休まなきゃならないってこと!?」 「それまでには合う薬が出る可能性もあるじゃない」 彼の母親は優しく諭した。宥める口ぶりから察するに、やはり慣れているようだった。 しかし、州の気がおさまるはずもない。 今度は椅子を倒すような音と共に、彼の自暴自棄な声が響いた。 その音に驚いたらしい環の背中を、そっと撫でてやる。 「州、発情は年齢とともに落ち着いてくるから……」 「落ち着くっていつだよ? 何年後!? おじいさんになってから?」 「州……」 母親が言い切らないうちに言葉を被せてまくしたてる。彼女が困り果てているのは、扉を隔てていてもわかった。 「でもね、いつかあなたも結婚する。αの人と番になれば——」 そして、ついに母親がそう口にした時、嫌な沈黙が続いた。 「……いやだ」 今度は、声を荒げなかった。だが、震えていた。 「番になんて、絶対にならない」 「例えばの話でしょ。それに今は考えられなくても、いずれいい人ができれば——」 「できない」 繰り返すたび、彼の語尾にふたたび怒りが生まれる。 「俺はどっかのαと番になんて、絶対にならない!」 口調が強くなり、それからすすり泣きに変わった。 「州、落ち着いて……」 なんで? どうしてこんな体に産んだんだよ。 Ωなんかに———— 嘆く声と、それを受け止める母親の悲しみの気配に、居た堪れなくなる。 それから環に促される形で、そっと外へと出た。
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