裏面

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「ごめんね。今日はやっぱり無理みたい」 玄関のドアをそっと閉めてから、環が言う。 枚田は先ほどの泣き声に引きずられて、どこかうわの空のまま頷いた。 「ああいうの、しょっちゅうなの?」 「うん。発情期になると、夜もなかなか眠れないみたいで、体が辛いみたい。だから、ああやってお母さんに当たっちゃうんだ。俺には弱音とか吐かないんだけどね……」 環の目が悲しそうに曇った。 関われない歯痒さも、きっとあるのだろう。幼いなりに、環はもう色々と理解している。 それを目の当たりにし、胸が締め付けられた。 「今日のこと、州ちゃんには黙っててあげて。マイにはああいうの見られたくないと思うから」 「うん」 それから環は俯き、ため息を自身のローファーめがけて落とした。 「俺ももう少し助けてあげられるといいだけど、お母さんが過剰に心配しててさ。俺がいつか、州ちゃんに反応してヒートになるんじゃないかって」 「でも、血縁者だし——」 「うん。でも州ちゃんってフェロモンが濃いらしくて。俺にはまだ、それがどういう匂いなのかよくわからないけど……」 環は、自身の歯痒さや苛立ちをすり潰すように、ローファーでアスファルトを擦った。 ざらりざらりという音に誘発されるように、枚田は咄嗟に発した。 「——金木犀」 音が止み、環が顔を上げる。 「金木犀って、秋に咲くあれ?」 「うん、あれ」 環は、花の色や匂いを思い出すように、しばらく遠くを見た。それから風船ガムを膨らませるように唇を尖らせて、勢いよく吹き出す。 「なにそれ。聞いたことない」 彼自身、まだ感じたことはなくても、フェロモン云々に関しては、すでにほかの誰かから情報を仕入れているのだろう。 「だいたいβにわかるの? フェロモンの匂い」 両腕を組みながら、そう続ける。 おそらく環は、決して見下しているわけではなく、ただ純粋な疑問として、それをぶつけてきたのだろう。 彼の言うように、あれはフェロモンではない。でも、それならば一体、なんなのか———— 「とにかく、州からは金木犀の匂いがするんだよ。小さい頃からずっと」 「州ちゃんから……?」 「うん」 彼のアーモンドのような目が見開かれ、枚田は確信した。 州のあの甘ったるい香りが、環にはわからないのだ。 環だけではない。他の誰しもが———— 枚田は玄関のドアを一瞥してから、彼の背中に手を当てた。 いつまでもここに引き留めておくわけにはいかない。 「環、もうそろそろ家の中入りな」 「うん……」 環は枚田に促されるまま、一度は玄関のドアノブを握ったが、やがてなにかを思い出したように振り返った。 「ん? どうしたの?」 それから、また枚田の前まで来ると、ポケットをまさぐって拳を突き出した。 小さな顎をしゃくって、手のひらを差し出すよう指示してくる。 「忘れてた。これ、さっきの口止め料」 彼は、枚田の手のひらに飴玉をひとつ落としてくれた。
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