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次に訪れたのは、洗濯部屋だった。
使用人たちしか使わない、お世辞にも綺麗とは言い難いこの場所に彼女がなぜ来たのか、ロバートにはわかる。
ここが、彼女にとって、優しい場所だったからだ。
昔、ニーナが世界の全てに打ちのめされ、挫けかけていた頃――。
『ちょっと、姫さん』
洗濯部屋の前を通りがかったニーナに、声がかかる。彼女が振り向くと、部屋から、使用人の一人が顔を出し、手招きしていた。
『今お暇で? それでしたら、ちょっと寄って行かれませんか』
決して敬語が得意でない彼女に、ニーナは小さく笑う。
『無理に難しい言葉を使わなくてもいいわ。異国から来た私に敬語を使わずとも、失礼には当たらないのだから』
『そんなことがありますか。姫さんは姫さん。どこの国の人でも、あたしらにとっちゃ変わりゃしないよ。でも、お言葉には甘えさせていただくかね』
『それで、どうかしたの?』
部屋の中に入り、そう尋ねたニーナに、彼女は洗濯の手を休めず言う。
『……また、王妃様に意地悪されたんですかい?』
『意地悪、というほどのものではないわ。お義母様にとって、私は実子でもなんでもない子供だから……。少々気に食わないという、それだけなのよ』
『気に食わないからって、なにも、お食事を抜きにするこたあないと思いますけどね。平民でもなかなかやりませんよ、そんなこと』
『……』
口を噤んだニーナの前に、そっと、一切れのパンが差し出される。驚いて顔を上げれば、喋っている彼女とはまた別の、初老の使用人が、穏やかな顔でそのパンを手にしていた。
『お上がりなさい。なにも食べていないんでしょう?』
『でも、これはあなたたちの……』
優しき姫が見せた気遣いに、先ほどまでの女性が鼻息荒く言う。
『あたしたちにゃ、朝昼晩と毎食配られますがね、あんたはそうもいかないのでしょう。食べなさい。まったく、王妃様も王妃様だよ。お姫さんが飢え死にでもしたらどうするつもりなのやら』
『……ありがとう。では、いただくわ』
そうしてパンを受け取ったニーナに、初老の女性は優しく微笑む。
『まだこっちに、野菜も肉もありますからね。王妃様たちがお食べになっているものより、品質は落ちるかもしれないけど、おなかを満たすことはできるから』
『……どうして、私に良くしてくださるの?』
今にも泣きそうな顔で、一口一口、ありがたそうにパンを食べる姫の小さな頭を、彼女はそっと撫でた。
『何事も助け合い。困ったら人の手を求め、困っている人を見たら手を差し伸べる。生きていく上で、忘れてはならないことの一つですよ、姫様。さあ、ゆっくりとお上がりなさい。王妃様に見つかったら怒られるでしょうから、内緒ですよ……』
そんな声をかけてくれた彼女らも、今はもういない。その遺体の行方すらもわからず、恐らくは、埋められてもいないのだろう。
信ずる者の少ない城の中で、自分に向けられた確かな愛情を思い返したニーナは、またそっと目を伏せた。そして、嚙みしめるように一つ頷くと、その場に背を向ける。
もう、彼女らに会うこともない。けれども、ニーナが生きる上でなにより重要なことを教えてくれた、偉大なる女性たちの想いを、ゆっくりとその身に感じながら。
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