この祈りが届くなら

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 演奏を終えると、ニーナは名残惜しそうな表情を作り、そっと鍵盤から手を離した。ロバートは、最後の一音が消えるまで、身じろぎもしなかった。  やがてピアノの音が、夜空に吸い込まれるようにしてなくなると、姫は立ち上がり、辺りを見回す。その顔には、寂寥(せきりょう)と、そして深い慈しみが宿っていた。  そして、ロバートを振り返る。 「では、そろそろね。行きましょうか」 「はい」  ロバートは頷き、彼らは声もなく部屋を出る。そのまま、会話を挟まずに階段を下り、玄関ホールまでやってきたところで、姫がふいに頭上を見上げた。  そこには、シャンデリアがぶら下がっている。この荒廃した城には似つかわしくない、けれどもかつての栄光を留める、美しい輝きを放っている。 「……このシャンデリアが、綺麗で良かった」  ニーナはそう言った。その意味を探るように、ロバートは彼女を見る。彼女の方も、ロバートを見、美しく微笑んで、またシャンデリアを見上げた。 「美しいシャンデリアと、ずっと側にいてくれたあなたを最後に見て、私はここを去るのね。ああ、なんて幸せなんでしょうね。感謝しなくてはいけないわ」 「姫君……」 「勘違いしないでね、ロバート。私は、死にに行くのではないのよ。ただ、エリスに会いに行くの。それに、私は幸福だったわ。エリスと違って、母のことも憶えているし、こんなふうにすべてを見て回った上で、納得の死を迎えられるんだもの。なによりも」  そこまで言って一度言葉を切り、不思議そうな顔のロバートに向けて目を細めた。 「あなたに見送られて、この世を去るのよ」  ロバートはなにも言えなかった。なにも言えず、ただニーナをじっと見返す他できない。口を開いたら、熱いものがこぼれ出しそうだった。 「エリスには、こうして見送る人もいなかった。だから、私はこれでいいのよ。もう十分すぎるくらい、幸せなの」  そう言って、おもむろに懐を探り、紙を取り出した。丁寧に折りたたまれており、まだ比較的新しい紙切れだ。それを、強くも柔らかい眼光と共にロバートに手渡した。 「これは……?」 「証明書よ。あなたが私の母国の人であり、この地が戦争によって住める場所ではなくなったことの。これを持って母国へ行けば、あなたは母国に亡命ができる」 「なっ……」  言葉に窮するロバートに、ニーナはただただ微笑むばかりだ。 「あなたには、生きて欲しいのよ。私の分もエリスの分も、全部」 「そんな。私とて、ニーナ様と一歳しか違わないではありませんか」 「ああ、誤解しないでね。あなたに、血塗られた、辛い人生を歩んでほしいわけではないのよ。ただ、幸せになってほしいの」 「……」 「貴方は、精一杯私に良くしてくれたわ。お陰で私は、今こんなにも穏やかな気分で死を迎えられている。だから、恩返しがしたくて。……それと、伝えてくれる? ニーナは、最後まで姫として生きたと」  そう言うニーナの目を見たロバートは、どうしようもなく悟った。  これは、姫が決め込んだ顔だ、と。  彼女ほど意志の強いものがいようか。一度決めたら必ず貫き通す。今回もおそらくはそうだ。意見を翻すことは、きっとない。  こんな表情をされて、ロバートに断る術などあろうはずもなかった。 「必ず。……ニーナ姫様」 「なにかしら?」 「私は悔しいです。こうして姫君を見送ることしかできない自分が」 「あら、そんなことはないわ。私はあなたに、とても救われたんだもの」  そう言って、彼女は、なににも代えがたい、満面の笑みを浮かべた。そこに後悔の色はない。姫らしい上品さと、娘らしい無邪気さが含まれているのみだった。 「さあ、では、そろそろ行くわ」  彼女はそう言って背を向ける。 「あなたも、どうかちゃんと生きて。そして、お幸せにね。今まで、本当にありがとう」  そして、もう振り返ることなく、兵たちが待ち受ける外へと歩いて行った。その背中は強く――凛々しく、なによりも美しい、確固たるものを背負った姫のものだった。  ロバートは願う――。私が、エリス様ならよかった。エリス様であったなら、必ずや、この姫君を、もっともっと生かしておけただろうに。  エリス様になりたかった。  けれど、と思う。  それは叶わないから。決して、叶うことはないから。エリスの死がなければ、ニーナはこれほど強くもならなかっただろう。だから、これでいいのだ。その代わり。  この姫君に、必ずや良い来世が訪れますように。  そう祈ってやまないのだった。
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