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私の父も野球が好きだった。
お蔭で女の子にも関わらず近くの少年野球チームに半ば無理矢理入団させられた。でも、野球をすぐに好きになった。
近所に住むノリちゃんとはそこで出会い、ずっと一緒に野球をやった。
学校から一緒に帰り、ランドセルを玄関に投げるとすぐに着替え、バットとグローブ、ボールを自転車の前かごに突っ込んでグラウンドへ――そして、日が暮れるまで延々と野球をした。
小学校時代の記憶はもうそれくらいしかなくなっている。学校生活はどこにいったのかわからない。
四年生にして私とノリちゃんは六年生の試合に出場するようになり、市の夏の大会を三連覇、県大会ではベスト十六まで勝ち進む。
ノリちゃんは最初からずっとキャッチャーで、私はショートとピッチャーだった。最後の大会、ベスト8を掛けた試合でサヨナラ負けを食らい、泣いたのもマウンドだ。
「カエデちゃんは頑張った。俺が力不足でごめんね」
マウンドで崩れ落ちる私を宥め、抱え、整列まで支えてくれたノリちゃん。
あの照りつけるような太陽の夏は今でも忘れられない。
お互いに中学に上がると、私の中にある思春期とやらが野球部への入部届けを出させるのを躊躇わせた。
――幼馴染の男の子とバッテリー組みたいので野球部に入部します。
そんな事を言えば茶化されるのは目に見えているので、私はもの凄く悩んだ挙げ句に入部を諦めた。
入学当初はノリちゃんも私を野球部に誘ってくれたが……そこはかとなく互いに察しもついたのだろう。
「高校野球に女子があったら、やってもよかったんだけれどね」
それが婉曲に、しかし、決定的な野球との別れの台詞にしてしまった。
もうグラウンドでは会えない。でも、私はきっと――ノリちゃんのことが好きだ。
これからはグラウンドの外から、そっと応援しよう。
そう思っていたのだが、野球の神様はそう簡単に野球との縁を切らしてはくれなかった。
彼がグラウンドで叫ぶ光景を、落ち着いて見ることが出来るスポットが校内に有る。それはグラウンドに面した放送室だ。
私はたまたま中一の委員会決めでじゃんけんに負け、放送委員になってしまった。
その頃は放送にまるで興味なんてなかった。後々に仕事内容が放課後まで長く学校に残って下校放送を流すことだと知り、人気のない委員会なのだということは知った。
ただ、放課後に放送室に入ると誰にも邪魔されずにノリちゃんがプレーする姿を見ることが出来る。だから、私は下校放送をするのが好きになった。
そして、放送室の偶然はもう一つ。
「……あれ、西野。下校放送は俺が流すからって言ったのに、まだ居たのかよ」
ノリちゃんもじゃんけんで負け、放送委員になっていた。
「佐藤くんだって部活あるのにわざわざ抜けてくる来る必要ないじゃん。私が放送しても構わないし――第一、鍵の施錠確認は二人ですることって決まってるじゃん」
小学校の時はお互いにノリちゃん、カエデちゃんと呼び合ってたのに、校内では互いに名字呼びだ。
……それだけが少し辛い。
「ま、いいや。そういうことなら西野、放送頼むわ。俺は喉の調子悪いんだわ」
「言われなくてもやりますよ」
ノリちゃんが声変わりしている最中だってことくらい知ってるよ。
機器のスイッチを入れ、主音量のボリュームを上げる。
マイクにそっと口を近づけた。
『下校の時間になりました。校内に残っている生徒は早く帰り支度を済ませ、下校しましょう』
私が台本通り、丁寧に二回繰り返し主音量を下げる。
「……西野の声、俺好きだな。スピーカー越しでも凄く綺麗に聞こえる」
不意に呟いたその一言が、私を放送に嵌らせたと言っても過言ではない。
気付けば私は放送の練習をしていた。
もっと素敵な声を出すにはどうしたら良いのだろう。
そんなことを考えながら声優のインタビュー記事やアナウンサーの練習法を本で調べ、腹式呼吸が大事だということを知り、またランニングをするようになった。
「……あのさぁ、西野。俺と顧問と部長からのお願いがあるんだけれど」
「どうしたの藪から棒に」
日の長い夏、下校時間は18時半と授業終了から3時間近くあるにも関わらず放送室に残っていた私に、ノリちゃんから声がかかった。
「もうすぐ総体なんだけれど、野球部のウグイスやってくれねぇかなって」
「えーっ……」
「頼むよ、野球知ってて声が良くてウグイスできそうな奴が他にいないんだ!」
野球におけるウグイスとは、試合進行に必要な放送アナウンスを担当することである。
ある程度決まった台本はあるものの、選手の紹介や代打のお知らせ、守備位置の変更など、咄嗟のアドリブを効かせなければならないシーンもある。
おまけにアマチュアであればスコアボードの得点表示やストライク、ボール、アウトカウントの操作まである。
野球の基本的なルールを知らなければ話にならない。
その時点で女子中学生にはハードルの高い仕事である。
「この通り! お願いします!」
まるで神社で参拝するかのように両手を合わせて深々とお願いされてしまったら、それはもう断るわけにもいかない。
でも、そこまで深々と幼なじみが頭を下げているのを見て――茶化さないわけにはいかないでしょ?
「私の声の価値……高いよ?」
「存じております! 顧問からは交渉のために『試合後にアイスを奢る』と――」
「もちろんそのアイスはハーゲンダッツのバニラ味だよね?」
「……顧問に交渉しますっ!」
「よし、それならやろう」
「ありがとうございますっ!!」
その夏、野球部は地区大会を勝ち進み県予選でベスト4に輝いた。
私は夏休みまでウグイスの仕事をさせてもらい、ハーゲンダッツを箱で貰った。
その一方で、野球部顧問の薦めで放送コンテストというものがあることを知った。
力試しと思って出場させてもらった放送コンテストで、私は中学生部門全国大会に出場していたのだった。
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