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第2話「架空の庭の、甘い声」
(Unsplashのfreestocksが撮影した写真)
乙也がSNS上で『呉乙彦』という人格を作り上げたのは、元カノの浮気相手の家庭をぶち壊したかったからだ。
同い年の元カノは、40代後半の大学教授と浮気して乙也を捨てた。
怒りのあまり浮気相手の名前も住所も勤務先も、3日ですべて調べ上げた。
学生時代からネットにはまり込んだ乙也にとっては、ろくなセキュリティをほどこしていない大学教授の個人情報を盗み取るのは簡単だった。相手は信じられないほどに無防備にプライベートを公開しており、家族の写真すら簡単に探りとれた。
そして、乙也は教授の妻である加賀和香に狙いを定めた。彼女はダイレクトなメッセージを送れるSNSにアカウントを持っていた。
『このオバサンを落として、SNS上でさらし者にしてやろう——』
教授の妻には罪はないが、単なる振られた腹いせだった。
決意すると乙也の行動は早かった。嘘のプロフィールを2分で作り、SNSに登録する。
『呉乙彦 製薬会社勤務 年齢48歳 気軽に話せる相手を探しています』
これだけだ。
嘘アカウントを作るときは、身バレをふせぐためにシンプルにするのが鉄則だから、これでいい。
その日から『呉乙彦』は加賀和香のアカウントにたびたび出現し、こまめに『イイね』をつけはじめた……。
最初の接触は3カ月前。
1か月後に、和香が『呉乙彦』のアカウントにくるようになった。『イイね』がつくようになり、やがてコメントを入れてきた。
乙彦はしめしめと思ったが、まだ何もしない。
獲物が確実に手中におちるまでは、じっと待つのが猟師のセオリーだ。慎重な獲物ほど時間をかけ、安心して巣穴から出て野原を歩き回るまで息をひそめて待つ。
やがて、獲物は後戻りできないポイントに来る。
しかし和香は用心深かった。
『呉乙彦』と連絡を取りはじめ、乙也が適当に拾ったオッサン画像を『自撮りです』と言って送った後も、まだ警戒していた。
その後の2カ月、ほぼ毎日メッセージをリアルタイムでやり取りしてようやく、安全ラインをこえるポイントがやって来た。
乙也はタイミングを計り、メッセージを送った。
『メッセージ入力は、時間がかかって大変ですね。和香さん、電話で話しませんか?』
和香はためらいながらも、
『じゃあ、少しだけ話しましょうか』
瞬時に、乙也は通話ボタンを押した。
相手に話しかける。
マイクには仕掛けがあり、音声は年配に聞こえるよう加工されている。
存在しない『呉乙彦』は、この瞬間から、存在するようになる。
和香のスマホの中だけで。
それでもいいと、思った。無性に、和香の声が聞きたくてたまらなかった。
先に乙也が話しかける。
『こんばんは、呉です』
マイク越しに聞く自分の声に、違和感がある。
そして乙也のスマホから、やわらかい声がこぼれ落ちた。
「……こんばんは。加賀です」
声が聞こえた瞬間、自分の周りがぶるっとゼリーみたいに震えるのを乙也は感じた。
和香の生の声がこぼれたところから、点々を花が咲く。赤、青、黄色、紫、たとえようのない鮮やかな花々が一気に咲き乱れた。
架空の庭でゆらゆらと揺れる声は甘い香りがして、乙也をなぎ倒す。
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