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第5話「乙也が思っていたより、ずっと『女』」
(UnsplashのFlavio Amielが撮影した写真)
その日、サウスホテルのロビーにやって来たのは『呉乙彦』だった。
友人の美容師に頼み込み、精いっぱい貫禄が付くようなヘアスタイルにしてもらい、ひそかに老け顔メイクも頼んだ。
『老けて見えたい、なんておかしな注文だな』
友人は笑っていろいろなアイテムを使い、乙也の顔に皺やシミを作った。ダサダサの黒ぶちメガネをかけさせ、グレーのカラーコンタクトをはめさせた。
『まあ、これが限界だと思ってよ。若作りならやれるけど、老け顔は難しいんだ』
鏡を見て、満足する。ギリギリ40代に見えないこともない。貫禄はもともとないから仕方がない。
それでも体にタオルを巻き付け、体重を増やして見せた。借り物の高級スーツの下で、むやみに空間が余っているようだった。
それでも、和香に会いたい。
約束の10分前にホテルへ入った乙彦は、必死に平静を装った。
5分前。
無理だ、無理に決まっている。何をどうやったって、20年を跳び越えることはできない。
夜の窓は鏡のように反射し、若すぎる乙也の首筋をあざやかにさらして見せた。
無理だ、やめよう、帰ろう。それでも乙也は動けない。
3分前。
こわい。和香は僕を嘘つきと責めて、なじるだろう。
みっともなく笑われて、何もかも失うんだ。
3カ月の恋だけれど、オンライン上だけの恋だけど。
僕にとっては、これまで付き合ったどの女より狂う恋なのに。
だからこそ、いま逃げ出そう。あの恋を守るために——。
「そうだ、帰ろう」
つぶやいて立ち上がった乙也は、ふだんよりタオルで二回りも太らせた身体でテーブルにぶつかった。ぶざまに転びかける。
「……大丈夫ですか」
声と、香りが一緒に来た。ミス・ディオール。和香が使っていると聞いてからネットで買い、ひとりひっそりと、かいでいる香り。
顔を上げると、和香が、いた。
上品なネイビーブルーのスーツを着て、ベージュのコートを羽織った和香は、画像どおりの柔らかい印象だ。
乙也が思っていたよりも、ずっと『女』だった。
ずくん、と血が沸き立つ。
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