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最終章「どこかで、ぱりん、と透明な音」
(UnsplashのNathan Dumlaoが撮影した写真)
ヤレる、俺は、この女とならヤレる。一生に一度の恋を、成就できる。
乙也は必死で笑いを浮かべた。自分の毛穴から吹きあがっているはずの、明白すぎる欲情を笑いで中和させたかった。
「どうも。呉です――」
「はじめまして。あの」
和香が、ためらった。目元はきれいにメイクされ、ほんの少し、隠しきれなかった乾きが浮いていた。渇きのなかに、乙也は明らかな欲情を見てとった。
乙也の全身が安堵でゆるんだ。
貴女のすべてを、俺は愛せる。
愛せるよ――。
そう言おうと口を開いた時、さきに和香が言った。
「あの、ごめんなさい。思ったよりお若くて」
やばい、ウソがばれたんだ。乙也はとっさに叫んだ。
「む、息子です! 呉の、息子です! 父が急なことで、代理で、急に……」
「息子さんが、代理」
すっと和香が離れた。乙也の目の前で、甘い香りの乾きは失せ、代わりに綺麗なゆとりが目元で曲線を描いた。
「……そうね。呉さんにしては、若すぎるものね。あ、お腹がすきませんか?ここはサンドイッチが美味しいんですよ」
和香が椅子に座る。微笑む。
その顔はもう、母親になっていた。実生活では16歳の息子を持つという現実が、和香の顔をおおっていた。
乙也も、すとんと椅子に落ちる。金属とレザーでできた椅子が、ひどく冷たかった。
『嘘です、僕が呉乙彦です。あなたと3カ月間、ずっと話していた男です。あなたの小さな秘密を知っていて、あなたが何を言われると嬉しそうで、どんな心の傷を持っているのか、知っている男です』
そう言おうとしたが、喉が塞がって言葉にならない。和香はやさしく微笑んだままウェイターを呼んだ。
どこかで、ぱりん、と透明な音がして、ガラスのコップが割れたようだった。呉乙也の恋も、ぱりんと割れた。
埋めきらなかった20年が、どこか遠くで割れたようだった。
【了】
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