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それが夏であるかどうかは、君の頬に斜めにかかっている、その影の濃度を見れば判った。この辺りの夏の日差しはとても強くて、三日にひとりは熱中症で運ばれるし、一週間にひとりは人が死ぬ。
だから、その影の濃さこそが、夏の証明になった。
「今、何時?」
君はそう、早口に言った。僕は慌てて腕時計を確認する。時計盤の数字を読み上げる。
「なんか、久しぶりだね」
君は髪をかきあげながら、暗闇の濃度の高い車内を、視線だけでぐるりと見渡す。「ふたりきりなんて、何年ぶりかな」君の薄緑の髪が、さらりと乱れて――君の視線と僕の瞳のあいだに、障壁は何もなくなった。
君の瞳が、怖いくらいにまっすぐだった。
君は少し首を動かして、手をうんと伸ばしながら、
「……怖いの?」
と、自嘲気味にそう訊いた――僕は慌てて首を振った。
「嘘。」
君はすぐに僕の嘘を見抜いてしまう。そしてそのまま、その細い指先で僕の顎をなぞった。「……汗、ダラダラじゃん」
僕はその言葉に、なんの言葉も、そして表情をも、返すことはできなかった。君と僕とのあいだに、あまりにも長すぎる沈黙が介入した。小鳥のさえずりが、壊れかけたマシンの動作音のように、耳の奥でキリキリと鳴いた。君は少し哀しそうな顔をして、呼吸を一度だけ震わせた。
「わかってる。わかってるよ。……行こ」
君はどうやら、僕の表情から何かを察したらしかった。そしてそれが、君にとって、膿みが湧き出すほどの強い傷として、今も心に残っているのだということを、君の表情から察した。
僕らは、言葉を介さずに会話ができた。
車から降りると、夏の暑さは飛び掛かるように僕たちを襲った。ぐらり、と揺れる視界と、その聴覚の拾う音のなかに、僕と君以外の人間が、生きている人間がひとりもいないことを自覚して、気が狂いそうだった。
「こっちだったよね」
苦笑いをした君の震える唇が、あり得ないほどの不安を抱えてそう発音した。君が歩き出すのに合わせて、僕も進むことにする。
蝉の鳴き声が本当にうるさい。
馬鹿みたいな形の入道雲と、それを突っ切る飛行機雲。
すでに夜を蓄えている森の奥。
分け入っていく君の、痣だらけの鎖骨が、森の枝葉のいたずらで、夕日に照らされたり、照らされなかったりするのを眺めながら、僕はどうにか前へと進み続ける。
その鎖骨が不意に止まったので、僕も静止せざるを得なかった。
どうしたの、と僕は尋ねてみる。
君は何も答えずに、ただ沈黙したまま前を見ている。
どうしたの、ともう一度尋ねる。今度は少し、声を大きくした。
肩が微かに、震えているのが分かった。
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……と、ヒグラシが鳴いている。
「あ、あの……さ」
君がようやく、振り返った。
アイシャドウは涙でぐしゃぐしゃになり、曲げられた眉根は、君がどれだけの強さで涙をこらえようとしたかの証だった。頬は紅潮し、身体は震えを抑えきれなくなっている。
今。
今、ここで、君のことを抱きしめて、そのまま連れ帰ることができたなら、どれだけ幸せだろう、と思った。
ここから逃げ出せたら、どれだけ安心できるだろう、と。
そのとき、うっかり、思ってしまった。
掠れた声が、蝉に邪魔されながらも、しっかりと聞こえた。
「怒ってる……よ、ね」
手足をもがれた小動物のように、視線をちぐはぐな位置に移動させながら、彼女はそう尋ねた。
僕はこの質問には、あえて答えることはしなかった。
できなかった、といったほうが、的確な表現かもしれない。けれど、分かって欲しかった。
これは君の問題なのだ。
徹頭徹尾、最初から最後まで。
君の問題であって、僕の感情や動作は、関係がない。
関わることのできない領域なのだ。
傍に存在することがたとえできたとしても、それは、木々や蝉と同じで、ただそこにあるに他ならない。
君はひとりぼっちなんだ。
例えここが駅のホームで、道行く人々がせかせかと歩いているその真ん中で、君が不意に立ち留まり、泣き出したところで、君を本当に救う人間はいないし、君を幸福にしてくれる人間は現れない。
君は真に孤独だ。そして、そんなふうに君を駆り立て、追い込んだのは君自身なのだ。そして君は、そのことについて、自分で責任を取らなくてはならない。
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……と、ヒグラシの鳴くその真ん中で、君はゆっくりと、僕のほうへ戻ってくる。そして、僕の右手を掴んだ。
「に」
夏だというのに、まるで極寒地に追い出されたみたいな君は、一言ずつ丁寧に言葉を発音した。
「げ、ら……れない、ように。掴んでて」
僕はゆっくりと、うなずいた。
ふたりで、段々と暗くなっていく道を並んで歩く。君の体温が、手を伝って僕の身体に流れ込んでくる。僕は思わず歯をかみしめた。怖いのは君だけではなかった。
「私、幸せになりたかった」
唐突に君は、銃の暴発のように言った。
「朝、目覚めたら目の前に、好きな人がいて、朝食はフレンチトーストで、私は大学に行けてて、将来の希望とかもあって、そういう、普通の幸福が欲しかった、それだけなのに」
そして擦り切れそうな声で、
「どうして、こうなっちゃったんだろう」
と、空を見上げた。伸びた首筋には、まだ手の跡が赤く残っている。きっと、母親の手の形と一致するに違いない。
友人が数日前から音信不通であると通報が入ったのは、先々週のことだった。事件性がありそうだ、ということで、僕たちは大屋に連絡を取って、合鍵を貸してもらい、音信不通の女性の自宅を捜査した。
女性の室内はとても散らかっており、いくつかの血痕も見受けられた。この家は母親と子供の二人暮らしだったはずだが、子供が暮らしていた様子はなく、また近隣住民への聞き込みによれば、どうやら行方不明の女性は、実の子供を虐待していたらしい。室内からはそのほかに、血濡れた包丁も見つかった。
この事件は、何者かによる殺人である可能性が高いとして、別の課の担当になった。
けれど僕は、その過程で――知ってしまった。
君が、虐待されていた〈子供〉であるということを。
僕たちが高校に進学して、恋や青春の中で育ち、大学に行って、成人して、社会に入っていくその傍らで、君はずっと、母親という呪縛に囚われ続けていたのだ、ということを。
知ってしまった。
止まっているのだ。
ずっと、〈子供〉のまま。
僕は仕事仲間には秘密で、数年ぶりに君にメッセージを送った。
返信はすぐに返ってきた。
「お母さんを殺して、埋めました。」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……と、ヒグラシの声が、頭上から降り注ぐ。段々と君の足取りは乱れ、とうとう、ほとんど僕に寄り掛かる形になっている。
「……し、……しょ……将来の、夢」
と、彼女は呟いた。
「小学生のころ、将来の夢って作文が、あったよね」
僕は黙ってうなずいた。
「君、なんて書いたの?」
思い出せない、と僕は答えた。
「……はは、そうだよ、ね。みんな、色々なことがあったんだろうね。小学生のころのこと、忘れちゃうくらい」
君の呼吸は、すでにかなり浅いものになってしまっていた。
「私はね、覚えてるよ。将来の夢……幸せになりたい、って書いた。そしたらね、オンブ神の巫女ってなんで書かなかったんだ、ってお母さんに突き飛ばされた。そのときの傷で私、右耳が聞こえないんだ」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「私、ずっと、普通になりたかった。お父さんがいて、お母さんがまともで、中学校を卒業したら、高校に行って、将来の夢があって、何になりたいとかも、全部決まっていて、夢のために頑張れるような、そういう普通に、なりたかった。」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「でも」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「なれなかった」
君は短く笑った。
「〈あの日〉……お母さん、急に怒り出して。手が付けられなくなったんだ。お布施が払えないとか、お前がもっと働けば、とか……とうとう、包丁を取り出されて、私、殺されると思った」
だから殺した。
「……ここ、左だよ」
君が指さす方向には、橋がかかっていた。赤く錆びたガードレールは、もう何者をも守りはしないだろう。道には草が生い茂り、そしてしばらく先のとある木陰に、その部分だけ、何か攪拌したように、土の色の異なる場所があった。
指が見えていた。
肉がこそげて、炎天下に晒されている――骨も。
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「うう……」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「だめだ、無理っぽい。もう、歩けない」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「ねえ、本当に仕方なかった。殺されそうだったんだよ」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「お母さん……私はただ、ただ、普通になりたかった。幸せになりたかった」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
「うう……苦しい。痛い。辛い。死にたい。死にたい。死んで、」
「死んで、楽になりたい」
消え入りそうな声で言って、その場にうずくまった。僕は、腰――拳銃の傍に引っ掛けてある、緊急連絡用のトランシーバーを取り出そうとして、けれど、それをやめた。
「ねえ」
と。
君はこちらを向いて言う。
平然と。
平静と――している。
「そこの木の傍に、シャベルがあるんだ」
悟ったように。
まるで何かを、悟ったみたいに、君は言う。
「それで、私のことも、お母さんの隣に埋めてくれない?」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
君は不意に、上着をはだけた。
あらわになった上半身に下着はなく、故にその傷は、君が母親に包丁で刺され、それを止血するために、裁縫セットで強引に閉じたその傷は、変色しているその傷は、僕の視界に晒された。
君は恥ずかしそうに、にへら、と笑う。
「もうすぐ私、死んじゃうんだあ……だから、ここを、お墓にして。」
キキキキ、キキキ、キ、キ、キ……。
ヒグラシが鳴いている。
僕は立ち尽くして、青空を見上げる。
どうすればいいか、分からなかった。
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