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真夜中の東京、鞍木地町(くらきじちょう)。 小さな町だが、最近では区画整理も行われ、町には新しい店や人が集まり賑わいを見せ始めている。 この町の一番大きな通りには、道路を跨ぐ歩道橋が設けられており、仕事帰りだろうか、その橋の上で、スーツ姿の男性が不意に足を止めた。年齢は五十代位、欄干に伸ばした手首からは高級そうな腕時計が、その薬指には指輪も見える。その姿からは、仕事も順調で家庭も円満といった雰囲気を感じられるが、その表情に目を向ければ、瞳は虚ろに揺らぎ、ぼんやりと歩道橋の下を走る車を見下ろしていた。 一体何を考えているのか、もしかしたら、もう何かを考えられる状況ではないのかもしれない。それというのも、男性の体に、何やら黒い影が絡みつこうとしていたからだ。まるで綿菓子のようにふわふわと、影が男性の体を囲っている。その影を辿って空を見上げれば、黒く大きな塊がふわりと浮かんでいた。夜をたゆたう姿はクジラのように大きく、布のようにも、巨大な手のようにも見える。それはゆらりゆらりと怪しく蠢きながら、やがて男性の全身を包んでいく。 真夜中といえど、歩道橋では時折、人が通りすがる。だが、誰も彼に気を留める様子はなかった。男性を包む黒い影が人には見えないからだ、それは、影に包まれている本人でさえも。 道行く人には、男性が橋の欄干に寄りかかっているだけにしか見えないだろう、もしかしたら、酔っ払いだと思われているのかもしれない。男性自身は、もう何かを考える事は出来ない状態だった、酔ってもいないが正気でもない。纏わりつく黒によって、その命がするすると抜き取られようとしているのに、誰もそれに気づく事はない。 街灯の上に佇む、少年を除いては。 「また…」 男性の命が失われていくのを、少年は歩道橋から少し離れた街灯の上で、呆然と見つめていた。 見た目は十二、十三才くらいの小柄な体格で、深い緑色の髪と同じ色の瞳を持ち、裾の短い着物に下駄を履いて、白い帯をひらひらとはためかせている。 少年は少しの間そうしていたが、やがてふいと男性から目を逸らすと、カツ、と下駄を鳴らして街灯の上から飛び降りた。ふわりと帯や着物の裾が揺れ、少年は落ちるどころか空を行く。 「…どうせ私は必要とされてない」 呟きは夜の闇に落ちて消え、黒に包まれた男性は翌朝、その場で息を引き取っているのが発見された。
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