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その夜から三ヶ月後の事。季節は夏を迎えていた。
真夜中の鞍木地町。二十五階建てのマンションの屋上に、二つの影がある。
静かな夜空に、ふ、と吐き出した煙草の煙がぷかりと浮かぶ。ふわふわと風に乗って漂う先、ぼんやりとした白い煙がゆらりと蠢いて、何かに飲み込まれた。風でも鳥でもない、大きくて黒い何か。まるでクジラが魚を補食するように、空さえ飲み込もうとしているかのようだった。
煙草を咥えた青年は、再び煙を吐き出した。寝起きなのか、とろんとした目は眠たそうで、目の前の奇妙な現象を見ても驚きもしない。
「…また来やがった…」
青年の名前はアリア、世界管理局支部・悪魔対策課に配属された天使である。
甘い顔立ちに、ふわふわと揺れるパーマがかった薄紫色の髪。白色の上下のジャージはくたびれ始めているが、それでもどこか様になって見えるのは、彼の容姿の良さのおかげだろうか。
「何を呆けてるんです、行きますよ」
アリアにそう声を掛けるのは、銀色の整った髪をさらりと流し、真夜中といえど夏の夜、この蒸し暑さを感じないのか、彼は黒のスーツにロングコートを羽織り、シャープな眼鏡がいっそう眼差しをきりっと見せている美しい青年。
彼の名前はフウガ、彼もアリアと同じ課に配属されている、こちらは死神だ。
フウガは手に革のグローブをはめながらアリアの隣に立ち、屋上の手すりを掴むと、それに足を掛けた。アリアは眉を寄せて何やら思案していたようだが、フウガが手すりの上に器用に立ち上がったのを見て、パチと指を鳴らした。すると、アリアの背中には真っ白く大きな翼が、頭の上には金色の輪っかが現れ、アリアはその輪っかを帽子のように被った。
その行動を見て、フウガはいつも思うことがある。
何故、金の輪を被るのだろう、他の天使は頭上に浮かせているのに。
毎度、密かに疑問を抱いているのだが、毎度、まあ聞く程の事ではないなと思い直してしまうので、フウガの密かな疑問は今夜もそのままだ。
フウガにとっては、仕事に関わること以外はどうでもいいこと。フウガはすぐに疑問を頭の外へ追い出して、夜空の向こうに目を向けた。黒い塊が移動して行く、町の大通りへと向かっているようだ。
「なんかさ、結局、優秀な死神様がいれば、問題ないような気がしてきた」
どこか投げやりにも聞こえる声が耳に届き、フウガはアリアを見下ろした。金色の輪が、微かにアリアの顔を照らしている。長い睫毛に影が出来て、その表情は疲れているようにも見えるが、単に面倒臭そうなだけのようにも見える。
「何を言ってるんです、これはあなたが主軸の仕事ですよ」
「でも、全部は救えないし…」
今度は唇を尖らせ、不満そうだ。フウガは分からないなと、眉を寄せた。
「一丁前に落ち込んでいるんですか?それでも救えた命はあるでしょう、それはあなたにしか出来ない事なんですよ?」
それでも、アリアは不満そうにフウガを見上げてくるので、フウガは溜め息を吐きながらアリアに向き直った。
「命の引き延ばしは、本来してはならない事です。ですが、これも天界、この世界のバランスを保つ為に必要な事。それには、あなたの力が必要なんです。あなたは、神に選ばれた天使なんですから」
上から押しつけている訳でも崇拝している訳でも、妬んでいる訳でもない、フウガの声は、ただ真実を告げてくるだけで、そこにフウガの感情は何も感じられなかった。アリアはその言葉を受け、ますます唇を尖らせた。
「…それでもさ、その神様だって、探して説得すりゃあ、俺もお役御免だろ?お前、そういうの得意じゃん」
ぶつぶつと言い始めたアリアに、フウガは不可解に眉を寄せた。この天使は何か不安を感じているのだろうか、それとも、仕事をしたくなくて言い訳を並べているだけだろうか、フウガにはアリアの気持ちが分からなかった。
フウガにとって、仕事をするのは当然の事、天使も死神も、神から与えられた役目をこなす為に生まれたのだ。だとすれば、与えられた役目に対する感情を持つなど、そもそも見当違いのこと。考える必要などない、ただ遂行するのみだ。
なので、こんな風に二の足を踏む者を見ると、フウガは不思議でたまらなかった。いつもなら、それなら一人で仕事をこなすと言いたい所だが、今回ばかりはそうはいかない。これは、死神には出来ない仕事だ。
「その神様が行方不明なんですから、私の出番はありませんよ。神様の居場所が分かれば、私だってそうしています。今、私達のすべき事は、神様を探すよりも目の前の事態の収束です」
フウガは言いながら、アリアに手を差し出す。アリアはまだ何か言いたそうにしていたが、その手を借り、翼をはためかして手すりの上に立ち上がった。
「さぁ…」
行きましょうと言いかけて、フウガは重なったアリアの手の甲に視線を向け、思わず言葉を止めた。じわじわと浮かび上がってくる火傷のような跡。アリアはフウガの視線に気づくと、その手を振り払って、何故か、ふんと胸を張った。
「別に!働くの面倒くせぇなって思っただけだし!」
傷を誤魔化そうとしてか、それこそ言い訳のようにアリアはフウガの視線を突っぱねたが、さすがにフウガもアリアがごねている理由に気づいた。その体が、そろそろ悲鳴を上げ始めている、仕事を全う出来るかどうかの心配が、アリアに不安を呼んだのかもしれない。
「ほら、行くんだろ!」
「…そうですね、やる気が出て何よりです」
「うるせぇな!」
煙草を噛みしめてアリアがフウガを睨み上げたが、フウガは臆する事なく、その口に咥えられた煙草を無遠慮に取り上げた。そのまま、「あ」と声を漏らしたアリアに構う事なく、胸元から取り出した携帯灰皿にそれを揉み消した。
アリアがどんな状態であろうと、やることは変わらない。それなら、アリアに合わせて気づかない振りをするだけだ。
お先にどうぞと言わんばかりに、フウガが優雅に夜空へと手を伸ばせば、アリアは何だか面白くなさそうに、唇を尖らせた。
「…お前、絶対に俺を助けろよ」
そのぶっきらぼうな言い方に、フウガは肩を竦めた。
「今まで私が助けてきたから、あなたはここにいるんですよ」
いちいち癪に障るな。アリアはそう思ったに違いない。だが、文句を言おうと口を開いても、フウガは涼しげな顔で佇むばかり。これ以上言っても無駄だと思ったのか、アリアは開けた口を引き結び、舌打ちをしてその翼をはためかせた。
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