ミュージックアワー(2013/3/24)

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ミュージックアワー(2013/3/24)

 屋上という場所は如何にもそれらしい、だから彼女はそこを大層好いていた。何処ぞの誰かが歌ったり、少年少女の決意の場として描かれたり、或いはドラマの一場面を印象的に飾り立てたりする。建物の天頂に位置するそこには、劇的な何かがあるのだ。高い場所には必ず曰くが有る。天に神仏が居るというのも、きっとそこが頭上だからに違いない。実際居るかどうかは知らないが、そう考える人間が居るということが重要なのだ。  彼女は両手で拳を握ると、熱を持った眼孔にそれを押し当てた。瞼の中から気泡と混ざり合った生水が湧き出てきて、ぶちぶちと小さく鳴った。屋上は風が強かったので、先程流れた分など既に乾いてしまって、顔の皮が引き攣れて仕方が無い。痛くは無いがどうにも気持ちの悪いものだなあ、なんて彼女は内心で暢気な事を考える。けれども一応は、悲しい、と当たり前のことも真っ当に考えておこうと思い直した。 「何で泣くの?私も泣けてきたんだけど…」  ゆっくりと回転する思考は、彼女の考える大人に近しく、それもまた大変に好ましかった。彼女は大人になりたかった。思う以上に、ならなければならなかった。誰かに求められるわけではないが、誰もがそれを要求していた。だから彼女は大人になるべく訓練を積んでいた。  けれど意識とは結局ただの想像である。脳味噌で生成された考えは、恐らく首の付け根の神経や血管が交錯する辺りで、そのごちゃごちゃと入り組んだ構造に呑まれてしまったに違いない。だから実際のところ、彼女は今にも窒息しそうな顔をして涙を零していた。大人は泣かない、とまでは言わないが、みっともないことには変わりない。おかしいなあ、と思って目頭に栓をしようとするのだが、瞼の中身は全く言う事を聞かなかった。  そうして彼女が四苦八苦していたところ、その様子をどう見たのか、友人の女が先の言葉を零して袖で目元を拭った。友人にしてみれば、別に相手を泣かそうなんて魂胆があったわけではなく、ただ単に自分の華々しい近況を語っただけなのだ。何も悪いことはしていない。何故泣くのかと問い掛けたのも納得だろう。  曰く。あなたも兼ねてから知っての通り、わたくしは素敵なとある人間と交際をしておりまして、この度籍を入れる運びとなりました。式の予定は今のところありませんが、いずれは行う予定です。苗字と住まいが変わるぐらいなものですが、嬉しいことなので、付き合いの長いあなたには早くお伝えしなければと思ったのです。そうして今、お伝えしているのです。ええ、そう、ありがとう。  友人の口調はもっと柔らかく、幸福そうで、親しげだ。女だってそれを耳で聞いて頭で理解していた。これは報告であって、きっと一言一句間違いなく真実なのだろう。女の下がりきった口元が少しだけ痙攣して、呼吸がしゃくりを上げた。それ以外は何も出て来そうに無い。咽び泣きたくても、言葉も嗚咽も何もかもが腹の中にもぐりこんでしまっていた。  思い出話をすると、彼女達は高校から親交があり、そろそろ十年を数えようかという付き合いだった。クラスが同じだったり、はたまた隣だったりと取り合わせは様々に。膝を突き合わせるには丁度良い四という頭数で、寄り集まっていた。随分馬鹿馬鹿しい話を幾つもしたものだし、斜に構えた議論を交わすこともあった。頭の悪いことをすれば誰かが笑い飛ばしてやったし、悲しい思いをすれば一緒になって沈んだり、茶化して喧嘩になることもあった。  そうして歳を数える内に、浮いた話が出たり、何処かに勤めたりと人らしく多忙にはなるもので。仲間の一人が住んでいるそのマンションの屋上が集合場所だなんて、お決まりの文句も出でこなくなった。考えてみれば学生とは金のない身分であるので、場所代も滞在費もいらない所にたむろしたがるのだろう。幾らか財布が自由になれば、何もそんな不便で寒々しい所を使わなくてもという運びになって当然である。ファミリーレストラン、珈琲店、居酒屋。長居できる快適な場所はいくつもあった。  さてこの頃より、件のマンションに住む女は度々首を傾げるようになった。自分は多忙である、そして彼女達も多忙である。しかし会える時間を見つけては酒を飲んだりして喉が枯れるまで喋り合うのだ。日々はなんて楽しく、充実したものだろうか。そうして大笑いしている内に、一人が顔を見せなくなった。おや、と彼女は思った。続く言葉は上手く思い浮かばなかった。だから代わりににんまりと、自慢話のような体で言ってみたのだ。手に職を付けて、あいつはなんて頑張り屋なのだろう、自分達と同い年のくせをしてなかなかやるものだ。これが言葉にしてみると、成程どうして心地が良い。自分はそうお綺礼な人間ではないのだが、嘘から出た真のようなもので、まるで自分のことのように嬉しくなった。我慢ではない妙な喜びに、彼女はこうして自分も大人になるのだなあと内心で少し気取ってみたのだった。  さてそんなことを言いながら、どの銘柄の珈琲が美味いだのと背伸びの評論をしていると、気付けばまた一人が捕まらなくなった。あいつ近頃男になんぞ現をぬかしているようで、ああ春だなあ、皆年頃になってきたのだなあ。そうやって語り合ってみると、残った二人は自然と顔をにやけさせていた。その阿呆面を笑い合ってみて、さて一方の自分はどうだろうと茶々を入れてみるのだが。まあなかなかどうして、不満はあるが楽しい毎日だ。浮いた話も無くはない。ふふん、と彼女はまたわざと気取ってみる。するとやはり気分はすこぶる良くなって、案外自分は他人の幸福を妬まない性質だったのだなあ、なんて感心するところも出てきた。まあどうせその内にまた酒を酌み交わす機会もあるだろうから、その時はつつき倒してやるつもりなのだけれども。随所に残す悪戯心も大切なのだと、彼女は大きく頷いた。首が斜めに傾ぎそうになるのは何の理由もないことだったので、そんな物は気の迷いだと思うことにして、頸椎を真っ直ぐ立てて頷いた。それは案外簡単なことだった。  その件にしたって、半年程前の話だろうか。いつか親が言っていた、時が流れるのは早いなどという愚痴も、最近は馬鹿にしたものではないなと思い始めている。一週間が経つのは、時間の消滅に例えられるほど確実に早くなった。物事は数カ月単位で捉えるようになった。気が付くと暦が一巡りしていたり、自分の歳が曖昧になることも時折有る。大人は駆け足をしているから、彼女も駆け足の仕方を覚えるべくして覚えた。周りの皆はもっと上手くできたが、彼女だってそれなりに前進できていた。自分が不格好に走っているのを想像すると駆け足なんてやめてしまいたかったが、そう思うと同時に、童心を引きずった大人を気取っているようで、そこは何だか恥ずかしく思えた。だから自分は言う程不格好ではなく、やめたいなどとは本当は思っていないのではないかと疑った。するとどうだ、実際はそうであるように考え直すに至ったのだ。  霞んだ思い出話や余計なあれこれが頭を引っ掻き回して、彼女はありとあらゆる言葉を飲み込んだ。言語とは難解だ。幾つになっても上手く喋ることができない。彼女だって事実、嬉しいとは思っていた。友人が籍を入れると言うのだから、嬉しくない筈はない。本当ならおめでとうと言った次には、なんだずるいじゃないか抜け駆けかと冗談を言ってやるつもりだったし、終始にやついて頭を叩かれるぐらいのことをしてこその自分だと自負していた。それなのにどうしたことだろう、めでたい話で泣きだすなんて、あまつさえ相手まで泣かせてしまうなんてそんな、何て事をしでかしているのだろう。どうしてこんなことになっているのだろう。空気が読めないとはこういうことを言うのだ。分かっていても止められるものではないから、世間にはきっと苛立ちが日常的に発生するに違いない。当人だってそんなつもりはないのだから、他人はもう少し寛容であるべきなのだ。それこそ空気を読んで然るべきではないのか。まあそれはそれとして、今はそんなことを考えてる場合ではないのだ。だから、ああ、一体自分は何を考えるべきなのだろうか。  そこにきて漸く、彼女の意識は屋上を旋回することをやめ、体の中に戻ろうと努力し始めていた。今自分はどうしていて、誰と対面して、どういうことを思い、如何なる失態を演じたのか。映画でも見ているようにコンクリートの上に立った二人の人間が、空撮で瞼の裏側に映し出される。女達は揃って泣いていた。泣くという行為は、自分の身に起こった理不尽に対して言葉を失って尚抗議するということだ。泣いている理由など分からなくて当然。大体そうしている内に理由が分かってきて、内心で納得して、どうしてそんな理由で泣かなければならないのかと疑問に思った辺りで泣きやむのである。だから双方共に涙を流している今この状況は、混乱の極みと言ってもいいだろう。相手が何故泣いているのかは分からない。そして自分が何故泣いているのかも分からないのだ。  だがしかし、根本的な話をするならば。涙の根源は大概三つに限られる。一つに嬉しいから泣く時がある。一つにあまりの怒りに泣く時がある。そしてもう一つに、有り余る悲しみから泣くことがある。さて、このたった三つの選択肢からならば、自分の感情の正体を知る事は可能なのではないか。そう思って彼女は一瞬だけ息を止めた。そしてはたと気付いて、盛大に顔を歪めた。思うに、自分は悲しいから泣いているのである。嬉しいし、少しばかり怒ってはいるようなのだが、何を置いても悲しいのである。では、さてと。彼女は大きく息を吸い込みながら考えた。自問は口から出て行かない分、なんだか腹の中で溜まって息苦しかった。  彼女は問い掛けた。どうして、自分はこんなに悲しいのかと答えを求めた。回答を待っている心の悠長さは何処かへ飛んで行ってしまって、彼女の喉はあっという間に悲鳴をあげた。瞼を覆った手から顔が離れていって、口が空を向く。子供が癇癪を起こすのと同じようにして、彼女は大声を上げた。呻いてから破裂するように泣き叫んだ彼女の前で、友人は少し驚いた、のかもしれない。残念なことにその顔は俯いていて、第一自分が空なんか見てしまっているからどんなことを考えているのか察することもできない。祝われる筈が泣かれるなんて、怒っていても不思議ではない。怒っているのだろうか、不愉快そうな顔をして?多分そんなことはないだろうなあ、きっとわけも分からなくて、私が泣いているから一緒になって泣いているだけなんだろうなあ。一緒に悲しくなってくれているのだろうなあ。一番付き合いの長い奴だから分かるのだ、あいつはなんて良い奴なんだろう。  喉の奥から湧き上がってくる声は、子供のそれよりも耳触りで大きく、がさがさとしていた。みっともないことこの上ないと分かってはいたのだけれども、彼女の体は言う事をきかず、口を閉じてみてもすぐに下顎が開いてしまう。その洞の中に風が吹いて入って来て、喉や舌を乾かした。すぐさま蒸発しているのだから、きっと体の中からは水分が抜け出ているだろうに、一体これはどこから湧いて来るのかと思える程に、涙は止まらずに流れ続ける。蛇口が壊れたと例えた先人は賢い、と泣き叫ぶ自分を小馬鹿にする彼女の頭の一部がうんうん頷いていた。  自分の嗚咽と、両耳を巻き上げようとする強風の音ばかりが聞こえる中で、彼女の瞼に一つの思い出が映った。屋上に因んで不謹慎な馬鹿話をした折のこと、一人の友人はこう言った。曰く、ここから飛び降りるのは存外簡単そうだが、そうなったら寂しいだろうなあと。  皆が居なくなった屋上は、それはそれは寂しいのだろうなあ。そう思ってまた悲しくなった彼女は、無理矢理口を噤んで唸りながら考えた。分かってはいるのだ。一方の居なくなった方だって皆と離れるのは寂しいだろうと、頭で考えることはできるのだ。自分が地上に落ちる様を想像すると恐ろしくなって、彼女は再び大口を開けた。  声になりきらなかったものが気道を締め上げて喉が鳴る。寂しいと叫んでやろうという魂胆はものの見事に失敗して、彼女の言葉はまた腹の中に落ちていった。
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