御一つ(2012/9/18)

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御一つ(2012/9/18)

 もしも、もしもの話で御座いますので、事実も根拠も在りはしないのです。  わたくしの出生に何かしらの問題があったというわけでは、ないのでしょう。もしそうだとするならば、もっと真っ当に、清々しく、非の打ちどころもない程に外道でしたでしょうに。いっそそうであったなら、わたくしは己が生き方に誇りを持ち、他人が如何言ったところで何処吹く風。立派に偏屈で煙たい人間になれていた筈なので御座います。  それがこうしてやれ誰が鬱陶しいだの、気を削いだのと騒ぎ立て、みっともなく他人のせいだと喚いているのは、一重にわたくしが平平凡凡のつまらぬ人間だからなのでしょう。嗚呼、一本気が通るというのは夢のまた夢。こうして気取って筆を持ち、怒るのを善しとせずに鎮めようなどと、否もしやそれすら気取ったものであり、実のところはそうした己に泥酔しているだけに過ぎないのかもしれません。しかし弁解させて頂くに、わたくしの周りにはあんまりにも出来た人間が多過ぎるのでございます。  思えば物心ついた頃には既に大人に囲まれておりましたが、その中にあって周囲の子供というのは残酷なもので御座いました。無理難題を語って平然としている凡才で愚鈍な大人に囲まれ、子供が望まれるのは神童かという行い。何という罰でしょうか、子供は子供であってはならなかったので御座います。わたくしにとってそれは紛れもなく苦痛であり、地獄であり、現にそこから逃げ出したのが良い証拠でしょう。しかし見渡してみれば驚きも驚き、なんと皆は期待に沿って澄ましているじゃあありませんか。出来た子供なんて、そんな言葉は使いたくありませんが、あれは紛れもなく出来た…否、果たしてあれは子供だったのでしょうか。そんな望みも無い、未来の決まった生き物は、本当に子供だったのでしょうか。  けれどもそれを差し置いたって、わたくしの周りには相も変わらず出来た人間ばかりがそろうので御座います。何故皆はああも賢いのでしょうか、何故ああして他人の心が読めるのでしょうか。わたくしに分かることは案外と少ないのです。他人が何を考えているかなんて、ほとんど分からないに等しいのです。だから人の気持ちになって考えろなどとは、本来言ってはいけないことなので御座います。  わたくしは無理難題を母様に望み、押しつけた罪悪で父様を罵りました。できることならわたくしは誰ともかかわりなど持ちたくは御座いません。しかし一人で生きていくにはあまりに浅はかで力も無い。気力すらも足りず、あっと瞬く間に死んでいくでしょう。わたくしは生きたいのです。わたくしは生きていたくはないのです。どちらも本当です。嘘などは申しません。  さて、わたくしはまず生きているのでしょうか。果たして愛しているのでしょうか。そもそも、本当にそれらを感じているのでしょうか。これだけ苦痛を想像するのですから、恐らくは本物だと思いたいのですが、思いたいだけであった時、わたくしは解放されるのでしょうか。それであるならば、今生とは何なのでしょうか。事実とは何なのでしょうか。  真実、わたくしが思うには今生とは意識と認識なのでございます。  よってわたくしは何かを愛し、生を楽しむので御座います。
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