「静かなご飯の森」

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「静かなご飯の森」

「うまッ」 静かな給食の時間。 その声は教室の後ろの方から聞こえてきた。 「誰?」と六年A組のクラスメイトが一斉に振り返る。 長引くコロナ禍のせいで黙食がすっかり日常化していた。 その静寂を打ち破る、ふと心の内からこぼれた呟きだった。 みんなの視線が山下朋花に集まる。 うつむいてしまって表情は見えないが、サラサラ髪の隙間から覗くまっ赤な耳が呟きを漏らした本人だということを物語っていた。 数人から「クススク」という笑い声が起きる。 が、すぐにその笑い声はフェイドアウトしていった。 相手がクラスで一番おとなしい朋花だったからだ。 冷やかすつもりはなかったとしても、泣かれてしまっては困る。 空気を読んだ教室はまた静けさに包まれた。 カチャカチャとスプーンやお箸が食器と当たる音だけが響く。 「うまッ」と言うなら、今だ。 誰かが今、その一言を口にすれば……。 「きっと大爆笑が起こるはず!」 朋花の一つ前の席で小林涼真はそんなことを考えていた。 だが、そんな勇気と自己顕示欲を持ち合わせた者はこのクラスにはいなかった。 お笑い好きの涼真は自分で言おうかと迷った。 教室を揺らすほどの大爆笑は今日の給食の煮込みハンバーグくらい大好物だ。 でも、断念した。 ふっと、朋花への遠慮の気持ちが湧き起こったのだ。 それは遠慮と言うより、朋花への好意に近いものだった。 一度も意識していなかった朋花に対して生まれた新しい感情。 涼真の心に突然芽生えたほのかな恋心だった。 当の涼真はまだそのことに気づいていない。 それよりも今は、大爆笑を取りたい衝動を抑えることで頭がいっぱいだ。 食欲で気をまぎらわせようと、涼真は煮込みハンバーグを一口頬張った。 すると今度は「マジでうまッ」と言いそうになる衝動が突き上げてきた。 「何だよこれ、最高じゃん!」 心の中で叫んだ涼真は、まるでその料理を初めて見るかのような目で皿の中の煮込みハンバーグをまじまじと観察した。 ハンバーグ自体、もちろん十分に美味しかった。 しかし、それを上回って涼真たちの舌を驚かせたのがハンバーグを煮込んだソースだった。かぐわしいデミグラスの香りが食欲をそそる。そして、口に入れた瞬間に広がるふくよかで酸味のある風味。とにかく、うまみが凝縮された給食の域を越えるクオリティーだったのだ。 「うまッ」と朋花のように声には出さないものの、その日の煮込みハンバーグが美味しかったという記憶はみんなの心にも強く刻まれていた。 その証拠にそれから何年も経った後に開かれる同窓会でも話題になるほどだった。 だがそれは、朋花の「うまッ」があったからこそみんなの記憶に残ったのだと涼真は思った。 それほどその日の給食の時間、物静かな山下朋花の口から飛び出した「うまッ」は絶品の煮込みハンバーグに匹敵するほどの衝撃的なインパクトがあったのだ。 ちなみにその同窓会には朋花の姿はなかった。 そして、涼真だけでなくみんなにも「うまッ」を口に出せなかったフラストレーションがあったのか、その同窓会では「うまッ」が流行語になった。 参加したほぼ全員が何を食べても「うまッ」、何を飲んでも「うまッ」を連発して大笑いした。 できれば本家、朋花の「うまッ」を聞きたかったという声も……。 それはそれとして、その同窓会に朋花がいない理由は二つあった。 一つは小学校を卒業する前に、朋花が転校してしまったこと。 朋花は家庭の都合で、六年生の夏休み中に母親の実家がある長野に引越したのだ。それは急なことで、クラスメイトの大半が二学期の初日に登校するまで知らなかったほどだった。 卒業アルバムのクラスの集合写真にも朋花の姿はない。朋花の控えめな笑顔は転校前の運動会や修学旅行の写真数点に見られるだけで、涼真たち六年A組は朋花のいない卒業式を迎え小学校を巣立ったのだ。それぞれ、再び朋花と交わることのない進路へと向かって。 そういう事情で、ほとんどの同級生にとって朋花は小学校を卒業した後も連絡を取り合うような間柄ではなかったのだ。 そして、もう一つの理由は同窓会が開かれた日曜日は朋花が仕事の日だったこと……いや、違う。 滅多にない同窓会の機会だ。仕事を休んで長野から涼真たちがいる東京まで駆けつけることは出来たかもしれない。 本当のもう一つの理由は、そもそも同窓会に朋花は誘われていなかったのだ。 その原因は、朋花が唯一学校で話せる相手だった渡辺希にあった。 家が近所同士だった希はおとなしい朋花を気遣って、いつもサポート役を買って出ていた。 友達づきあいが上手く、勉強も出来、スポーツも得意。そんなクラスのリーダー的存在だった希と、地味で内気な朋花。 対照的な二人は大きなケンカをすることもなく幼なじみとして育ったが、初めて希は朋花についてある悩みを抱えることになる。 それはあの「うまッ」事件を境に、涼真の視線の先にいつも朋花がいるようになったことだ。 その異変は朋花の突然の転校で終わりを迎えたが、その後も涼真の心の中にはずっと朋花がいることを希は感じていた。 だから、呼ばなかった。 希は同窓会が開かれることを朋花に伝えなかったのだ。 なぜなら、希が涼真のことを好きだったから。 一途に、ずっと。 そして、二十歳になった記念に企画された六年A組の同窓会は予定通り開催された。 この日、希は涼真に思い切って告白したいと考えていた。 それは、希にとって初めての体験だった。告白されることはあっても、自分から「付き合ってください」などいう言葉を口に出したことがない希。 そんな希が自分から行動を起こして恋を成就させようというのだ。涼真と初めて同じクラスになった小三から数えて、実に十一年越しの恋。ずっと引きずってきた初恋だった。 どんなに長い間募らせてきた想いでも、告白は一瞬。すぐに目の前の世界が天国か地獄かに変わる一発勝負。 当然、希の気合いは尋常ではなかった。 邪魔な存在の朋花は長野にいる。 涼真に彼女がいないことも、事前にしっかりとリサーチ済みだった。 しかし、バッチリ計画を練ったはずの希に想定外のことが起こった。 同窓会が始まると、誰からともなく「うまッ」の大合唱が始まったのだ。 「うざッ」 希はチッと舌打ちしたい気分だった。 一世一代の大舞台が控えているというのに、この場にいない朋花に水をさされるなんて。 さらに悲劇が起きたのは、二次会のカラオケ店に移動する時だった。 このタイミングを狙っていた希はうまく涼真と二人きりになるチャンスを掴んだ。なのに……。 「希ってさ、山下さんの連絡先知ってるんだろ?」 涼真からまさかの質問を受けてしまったのだ。 その後の展開は坂道を転がり落ちるように絶望へと向かった。 希が夢に見た幸せな結末とは真逆の方向へと事態は悪化の一途を辿った。 希から朋花の連絡先と住所を教えてもらった涼真は、二次会でマイクを握ろうともしなかった。店に入ってすぐにスマホで長野への電車の乗り継ぎを調べ始めたのだ。 そして、次の週末には涼真は一人で朋花のいる長野へと向かっていた。 朋花は国営林を望む自然豊かな里で母親が営むレストランを手伝っていた。 美しい湖のそばにひっそりと佇むレストラン。 店の名前は「静かなご飯の森」。 大人気のメニューは煮込みハンバーグだった。 朋花があの日の給食で思わず「うまッ」と心の声を呟いてしまった煮込みハンバーグ。その味を思い出し、何度も試行錯誤を重ねて再現したらしい。 で、ちなみに涼真は朋花が丹精込めて作った煮込みハンバーグを頬張り「うまッ」を連発する。 朋花もまた「いつか六年A組のクラスメイトに食べてもらいたいと思っていたの」とうれしそうに弾ける笑顔で話した。「その夢が今日、叶った」と澄んだ瞳をうるませながら。 ちなみのちなみに涼真はその夜、朋花の家に一泊させてもらうことになる。 それから次の日は、朋花の案内で長野の名所巡りを涼真は楽しむのだ。 はたして、涼真の朋花への片想いは実を結ぶことになったのか? それはまた別の話で……。 話を給食の時間に戻そう。 黙食が続く中、六年A組の教室で涼真はまだ「うまッ」を言いたい衝動と闘っていた。 でも今言ったとしても、絶対にウケない。そのことは分かっていた。 間が悪いのだ。もう大爆笑を取れるタイミングはとうに逃していた。 それでも、「うまッ」を言ってみたい。 大爆笑はムリでも、クスクス笑いが起きれば満足だ。 だが、クスクス笑いも起きない大スベリの可能性だってある。 そうなった時、シーンとした静寂に耐え切れるだろうか? スベれば何も悪くない朋花を巻き込み、二人で赤面することになる。 沈黙を続ける朋花を背中に感じながら、涼真は考えていた。 「それだけは絶対に避けたい!」 身悶えするような葛藤を抱え、涼真は苦しんでいた。 すぐ後ろの席では恥ずかしさに打ちのめされ耳がまっ赤なままの朋花がずっとうつむいていた。 煮込みハンバーグの二口目を早く食べたいのに、顔を上げられない。 まさか、一口しか食べられずに給食の時間が終わりになってしまうのだろうか? 無情にも給食当番の手で引き上げられていく食べかけの煮込みハンバーグの皿。 あまりに残念なイメージを思い浮かべた朋花は、そんなの絶対に嫌だと思った。 ここは精一杯の勇気を出したい場面だ。 「食べなかったことを後悔したくない!」 朋花はどこかで顔を上げ、二口目をいくタイミングをひたすら見計らっていた。 カチャカチャとスプーンやお箸が食器と当たる音だけが響く。 黙食の静けさの中で、誰も知らない二人の熱い気持ちが交錯していた。 (おわり)
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