しらず(WEB版)

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しらず(WEB版)

 黒い森を抜けた先に、腐った泥の沼がある。  辺りは一面鋭い臭気に包まれていて、動物はおろか死肉を好む虫さえいない。蔦が這いずり回り、いくつもの木々が枯れている。少年は咳き込み、涙を流しながら、大きな麻袋を引き摺って暗い森を歩いていた。  沼から半日程歩いた所には、小さな寄り合いの集落があった。村と呼ぶ程の人はおらず、建物はほとんどが掘っ立て小屋のようなものだった。少年はそこで生まれた子供だった。父親はおらず、母親は彼が十歳になった頃、犬に食われて死んでしまった。彼は集落の隅で暮らしていた。彼は広場の真ん中にある焚き木が嫌いだったのだ。火の中からはいつも重たく甘い匂いがしていた。目の落ち窪んだ大人達は、黒い泥のようなそれを、毎日美味そうに啜っていた。  集落には三つの決まりがある。一つ、食べる物に文句を言わないこと。一つ、食べられることにも文句を言わないこと。一つ、神様を信じること。少年は昔、大人達に「どうしてこんなにも毎日が苦しいのか」と訊ねたことがあった。大人達は少年の頭を、その枯れ枝のような手で優しく撫でて言った。 「うんと昔はもっと、もっと、苦しかったんだ。神様は、私達があんまりにも可哀想だったもんだから、こうして守ってくださるようになった。だから、お前が苦しいと思うのはまやかしだ。外の世界は、もっと辛くて苦しくて、本当ならすぐに死んでしまうんだよ」  少年はそれを聞いて震え上がった。死ぬと聞いた彼の脳裏には、無数の這う虫がやってきて口や耳から入り込み、体の中に巣を作る様子が思い浮かんだ。また、或いは別の方から狼が走ってきて、噛みつき、四肢を引き千切る様も映し出される。万力が指先を挟み、骨が潰れて皮膚から飛び出すことも、深い水瓶の中で、蠢く巨大な魚に腸を齧られる様子も、まるで直接見聞きしたかのように思い起こせる。  それは集落で語られる死の形だった。死とは終わりではない。死は暗い闇の世界で息を吹き返すということである。生者は実のところ、束の間気を失って夢の中を漂っているだけなのだ。この世で死ねば、あの世で眠りから目覚める。人はいつか必ず死ぬが、それはどう逃げようとしてもいずれ恐ろしい世界へ連れ去られてしまうということである。死を思って少年は気が狂いそうになった。彼は先に死んでしまった母を思い起こし、耳の奥でその叫び声を聞いた。  その月は子供が一人も死なず、三十歳から四十二歳までの大人が三人死んだ。墓を囲む葬列の中で、老人達は口をつぐみ、その頬の中で嬌声を木霊させていた。唸るような、歌うような声は、彼らが珍しく死を恐れていないことを表していた。笑っているのだ。少年は老人の一人を捕まえて、何がそんなに嬉しいのかと訊ねた。 「ぼうや、神様がおいでになるよ。早く支度をして沼へお行き」  老人は丁度、自分の夫が眠る墓を掘り起こしているところだった。土を掘る度に、湧き立つ臭いが強くなっていく。鼻が溶けそうだと少年は思った。  老人の手は今にもひしゃげそうだった。それでも彼女は土を掘る手を止めない。そして遂には崩れた夫の体を見つけ、墓穴を漁ってそれを取り出す。死体はいくつもの破片になっていた。彼女はそれを全部取り出すと、麻袋に詰めて顔いっぱいの笑顔を作った。頬の肉が蕩ける。爪が剝がれかけていたが、彼女はそれに気付いていないようだった。  翌日になると、大人達は皆、老人を真似て墓を掘り起こしていた。一方で老人達は、こぞって既に旅支度を始めていた。彼らは自分の足が遅いことを知っているのだ。集落の中には死臭が溜まり始めていて、少年はもう何も食べたくないと思っていた。空腹と居心地の悪い臭いで頭が朦朧とし、彼は通りの真ん中でぼんやりとする。耳の奥からは、相変わらず母親の叫び声が聞こえていた。我が子の名前も、その苦痛から逃れたいという意志さえも失って、ただ喉を潰しながら泣き叫び、獣のように吠える声だ。かあさん、と少年は呟いた。大人の一人が彼に近寄って、大きな麻袋を一つ手渡した。大人は袋を広げ、それにお母さんを入れなさいと言う。何年も前に死んだ母はもう土に還っているだろうと少年が答えると、大人は土を袋に詰めるようにと言った。少年は従順になり、墓へ行って言われた通りに土を掘った。  臭い土を袋に詰める。途中で骨をいくつか見つけたが、触るだけで崩れる程脆くなっていた。少年は爪の間に入り込んだそれを、なんだか気持ちが悪いと感じた。それから、かあさんごめんねと、酷く憐れむような優しい気持ちになって我慢をした。周囲では麻袋が地面を擦る音がいくつも聞こえる。彼が顔を上げてみると、集落から人々が出て行こうとするのが見えた。少年は残りの土を全部袋に詰め込んで、慌てて彼らの後を追った。やせ細った人々は、ゆっくり、ゆっくりと麻袋を引き摺っていた。 「ぼうや、知ってるかい。神様はあの世で子守歌を歌ってくれるんだ」  老人の一人が言う。 「うちではあの世の人を殺すと聞いてるぞ」  隣を行く若い男が言った。  少年は、遠い昔に母親が讃美歌を歌っていたことを思い出した。苦難の地から民を率いて、我らの神は来たれり。真似て口ずさむと、老人が金切り声を上げて空へと吠えた。暗く湿った森に獣の声が響く。老人は足をもつれさせながら駆け出し、沼目掛けて突進した。麻袋を引き摺る音が、跳ねたりぶつかったりしながら遠ざかっていく。そのうちに見えなくなって、水の中でそれが溺れる音がした。泡を出しながら、しゃがれた声が尚も何かを叫んでいる。  少年は鋭い臭気に目鼻を刺されて涙を流した。辿り着いた沼では、老人がうつ伏せになって浮かんでいた。若い男が進んでいって、麻袋を沼へと運ぶ。水は酷く濁っていた。粘り気のある破片が無数に浮かび、水面を覆っている。少年は母親に再び謝罪しながら、それがまるで汚物であるような感覚を覚えて目を逸らした。空には白い月が二つ浮かんでいる。その内一つが熱で蕩けて、沼の遠くの方に落ちるのが見えた。少年は重い足で地面を踏みつけ、光が零れる方へ向かって、泣きながら進んでいった。  願い事を叶える為には墓を掘り起こし、満月が二つ出た日に死体を沼へと流さなければならない。神様は七日目になると、人々を伴って沼の向こう側へやってくる。水面を流れて死体がそちらへ着けば、愛する人々は肉体に乗ってこちらへと戻ることができるのだ。  死体はできるだけ新鮮な方が良い。けれども満月が二つ出る日は、何十年かに一度きり。だから体が土に還ってしまった時には、迷わないようにこちらから出迎えに行かなければならない。  若い男が麻袋から綺麗な女の死体を取り出すのを見て、少年は羨ましいなとぼやいた。彼の母親はもう土くれも同然だ。女の死体が沼に沈む。飲み込まれるようなそれは、まるで沼の中にいる何者かが、女の体を食べているかのようだった。  少年は麻袋を担いだまま沼へと入って行った。  最初は足元にあった水面が、膝へ、腰へと徐々にせり上がってくる。骨や肉片、人の脂が浮かんだそれは、少年の心を酷く重たく沈めていった。彼は耳の中にいる母親の声を聞く。叫び声をやめたそれが、何かを囁く。途端に麻袋が沼の底へと引っ張られ、少年はぬめる泥に足を取られて転んだ。呼吸を求めて開いた口に水面が吸い込まれていく。  少年はどうしてだか、悲しくて仕方がなかった。  一つ、食べる物に文句を言わないこと。一つ、食べられることにも文句を言わないこと。一つ、神様を信じること。昔、讃美歌を歌った母の声が呪文のように唱えるのを聞いて、彼は再び涙を流した。  その内に大きな魚がやってきて、彼と麻袋の中の母親をさらっていった。  後には何も残らず、そこには不潔に濁った、黒い泥が広がるばかりだった。
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