買掛

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 あのう、こちら三國不動産でよろしいでしょうか。  か細い女の声が、玄関口から滑り込んでくる。見れば引き戸を十センチも開けないで、外から何者かが様子を窺っているようである。こんなことをするのは大抵が客だった。そう思い直して腰を上げた青年は、つっかけを履いて土間へと降りていった。  店は古い町屋の造りを残していて、入口は今時珍しく、薄いガラスを張ったサッシ戸だった。また入ってすぐに広い土間があり、片隅には店の間といって、土間から一段上がった、襖などの仕切りの無い六畳程の座敷があった。青年はそこで店の帳簿を手に取り、勉強と称した読書に勤しんでいたのだが、控えめな客が現れたので開店から数えて数時間ぶりに立ち上がることにしたのである。  膝が重くなっているが、幸いなことに痺れてはいない。足元の土間はコンクリートで固められていて、転べば擦り剥いたり痣になったり、何かと痛い思いをするので、いつもこの瞬間は気が抜けない。青年は入社してすぐの頃、膝に大痣を作った思い出をしっかりと教訓にしていた。また同様に、引っ込み思案の客を待っていると、そのうち諦めて帰ってしまうということも知っていた。だからこういう時は、面倒がらずに自ら出向かなくてはならない。つっかけの踵がからころと鳴っている。客はその音を聞いてもなお、自分から扉を開くことはなかった。 「いらっしゃい。こんなボロ家ですけど、ちゃんと営業してますよ」  青年は努めて温厚な声を発した。するとサッシ戸の隙間から、ほうと気の抜けた息が吹き込んできた。呼気はほんのりと甘い。葡萄かなと思っていると、客の口の中で歯と飴玉の当たる音がした。青年は静かに引き戸を開いた。  客は若い女だった。歳は二十代初めの頃で、色はすっかりと疲れきっていた。生気が無いとは言わないが、気力が抜けてしまっている。眉間に皺がこびりつき、口角と眉が下がっているところを見ると、近頃気苦労が多いのだろう。青年は同僚たちの顔をいくつか思い浮かべ、今日の店番が比較的温厚な自分で良かったと女に同情するような気持ちになった。  古びた店内に不信感でも募ったのだろうか、女はなかなか敷居を跨がず、足元と青年の顔を交互に見ている。まあ確かにこの年頃の人間は自分も含めて、古臭い店は胡散臭い、あるいはサービスが悪いという印象を持っているところが少なからずある。だからこの客はなかなか入ってこないのだろうと当たりをつけて、青年は相手が何かするまで待っていた。  すると客は言った。 「そのう、すみません……お恥ずかしい話ですが、看板がどうしても読めなかったものですから」  青年はそういえばそうだった、なんて思ってから、自分もまだまだ接客がなっていないと、教訓を一つ増やしたのだった。  三國不動産。そこは古い街並みを残した観光地の片隅で、ひっそりと居を構える不動産屋である。  一口に不動産と言っても、ここはよくある土地や住宅を売る店ではない。店舗入り口に貼られているのは部屋の間取りではなく、ぼやけた顔写真や極彩色の風景画、更には化け物の徘徊する西洋の街並みなど様々である。それらの共通点を挙げるならば、どれも店舗評価と称して小さく解説がついており、どのような人間にとって住みやすさが星いくつと習字の手本のような楷書体で書かれているところだろう。加えて、軒先に立てかけられた板には、同じような字でこう書いてあった。 『生きにくいと思ったことはありませんか?常識変更、次元移行のプロフェッショナルが、あなたを異界へお連れします。実体・霊体・概念体、お客様のニーズに合わせた世界をご用意しております。お引っ越しは三國不動産へ。ご要望の多かったアフターケア始めました』  軒の上に並んだ瓦屋根には、大きな一枚板でできた看板が乗っている。見る人が見ればはっきりと店名が描かれているのだが、見えない人が見れば、そこにはただ雑然とした文字が並んでいるだけだ。  ソ等廼テ澤哉亞。読めない看板が掛かっていれば、それはそれは怪しいことだろう。青年は、客がようやく一歩踏み出したのを見て、改めて「いらっしゃいませ」と歓迎の挨拶をした。
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