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ソ等廼テ澤哉亞
三國大介というその男は、少し前までスーツに身を包み、日夜パソコンと依頼者に立ち向かい続ける偉大な戦士だった。
これはそんな彼が、一般的な会社と社会から抜け出し、人の想像力を切り売りすることになる、最初の一歩を描くものである。
青年に言わせると、彼の元勤め先は平均的なよくある会社だった。起床は朝六時、自宅は寮、通勤時間は数分。始業は八時半だが、彼は遅くても七時には仕事を始めて、終業時間は五時半。タイムカードを押した後で、自主的にではあるのだが少しだけ残業をして退社時間は二十三時四十分過ぎ。コンビニエンスストアで旨いものを買って、帰宅し諸々済ませて眠るのが二十五時から二十六時。また朝六時に起床、休日はカレンダー上で週二日。内、半分ぐらいは会社で過ごすのが常だった。使いどころの無い給料は概ね貯蓄に回り、突然首を切られても路頭に迷う心配は無い。なかなか良好な人生だ。そう思っていた彼を失業者へと追い込んだのは、友人達の度重なる進言だった。
その会社は黒だ、世間の人間はもっと楽な暮らしをしている。お前は目を覚ますべきだ。お前は会社に洗脳されているも同然なのだ。
世間がどうかは知らないが、自分は別にそのせいで病気に罹るということもなく、不満も特に感じていない。他の会社には努めたことがないので、他所の仕組みは知らない。自分にとってはこれが常識なので問題無い。三國自身はそう思っていると自信を持って言えた。だがあまりにも友人達が気を揉み続けるので、なるほど彼らにとってこれは非常識なのだなと理解することができた。終いには直談判に行ってやるとか、代わりに出るとこ出てやろうかなどと言い出した優しい人々を心配に思って、三國はとうとう人生の舵を切ることに決めたのだった。
皆の祝福を受けて失業した三國は、転機が回ってきていたのだろうと考えることにして、結局苦労するのは自分だという不毛な想像をその場に捨てた。二十代後半にして職を失うのがどれほどの痛手であるのかと訴えてくる世間は正しい。同時に、体を壊す可能性を今の内に潰しておいて、新天地へ繰り出すのには良い歳であるとする世間も正しい。世間というのは全体のようであって、本当はどこからどこまでと区切りもあれば、自分がどの世間に含まれているのかと考えるべき、つまり個別の問題なのだ。中学時代の偏屈な同級生が、まるで内緒話をするように教えてくれたことを思い出して、三國はぼんやりと「そうだなあ」と思っていた。
失業三十五日目、そろそろ両親が不安がる頃である。そういった考えに憑依された三國は、新たな職はこれこれこうであるという電話を母親に掛ける姿を想像するようになった。もしもし母さん。お決まりの文句以降、現実のように会話の詳細を煮詰めていった想像は、やがて実際に就職活動をしなければいけないという焦りへと転じる。さて、世にいう就活とは一体どういうものだろうか。大学に斡旋された企業に勤めて長かった三國は、そこからして予想ができず、ひとまず伝え聞く就活の聖地へと足を運ぶことにしたのだった。
ハローワークとはなんぞや、持ち物はなんぞや。その辺りを信号待ちの間に検索しながら、三國はぼんやりと街行く人々を眺める。ゆっくりと歩く大学生、親に連れられた小学生、初老の女性数人組、外国人観光客。足早に通り過ぎるのは見慣れたスーツの人間、店名の入ったティーシャツ姿の若い飲食店店員。それらに比べると足取りが重そうなのは、多数の老人と、自分と似た出で立ちの働き盛りな世代だった。
もしかすると、自分はもっと焦るべきなのかもしれない。そう考えると、突然先行きの見えない不安らしきものが湧いてくる。感情の創造は簡単で、いつでもどこでも誰でも簡単に行うことができる。だから、これだけ仲間がいるのだから焦る必要は無いと、思おうと思えばそう成れる。反して、彼らと同じようになってはいけないと、常識的行動に縛られようとすれば、またそれもすぐに成れるのである。
三國という男は非常に流されやすい人間だった。彼はそれを自分でも理解していて、以前は芯の通った人間に憧れたこともあった。しかしよく考えてみると、自分は幼少期から今に至るまでずっと他人に流され続ける傾向がある。ということは、これはこれで一本芯の通った生き方なのではないか。言い方を変えれば、他人をよく許容し、自分の意見に固執せず、どこへでも転じることができるということである。閃きは同時に詭弁であると、彼は彼自身のことながら理解することができた。けれども嘘ではない。つまり自分には芯が無いことと、芯が有ることが両立するのだ。
なるほど、と三國は勝手に納得した。すると彼の心の中で、芯の通った人間を羨む気持ちと、己に対する確固たる自信が同居することになった。彼は、他人から批判された時に「それもそうか」と思ったり、「自分が悪いのだ」と思ったり、あるいは「批判は正しいが自分はそれを不服に感じる」と思うようになった。他人の見方と、自分の常識がほぼ同時に見えるようになったのだ。友人達はそんな彼を批難し、そういう八方美人な部分がお前の悪い所だと言った。
彼は友人達の言い分と、自分がそう言われて嫌な気分がすることを秤に掛けた。両方理解できるが、果たして自分はどちらが重要だと思うのか。その時彼は、両方理解できると言っている時点で自分の思考を認めているということに気付いた。よって彼は友人に「そうかな、ごめん」とだけ言って、治すとも治さないとも言わなかった。他人は彼が性格を改めるものだと思ったが、当人は丁度改めないことに決めたところだ。こうして価値観は分岐した。彼だって一貫して流され続けるというわけではないのである。
現在、彼が自宅にしているのは、寮ではなく月極め契約のアパートだったが、そこからハローワークまで行くには歩いて街中を横切る必要があった。土地の名前は狭川といって、古い城下町が焼けずに残り、それを利用して客を集める小さな観光地だった。通りの一部には手焼きせんべいや和菓子の店が並び、食べ歩きの文字が躍っている。少し前までは歳の寄った人が多かったが、観光協会の頑張りのおかげか、近頃は遠足以外にも年若い人を見掛ける機会が増えた。たった今擦れ違ったのは大柄な白人男性だ。街は日々活気付き、元からある町屋に加えて古びた街並みを造って広げている妙な状況である。数年後にはテーマパークにでもなっているんじゃないか。そんな想像をしながら、三國は狭川の街を横切って行った。
すると角を曲がったところで、彼は一本の電信柱に出会うことになった。汚れた灰色の柱には、よれた小さな和紙が張り付けられている。張り紙禁止のプレートを半分隠して貼られていたそれに、三國は少しだけ笑ってしまう。この辺りでは、年老いた大家達が、手書きで『空室あり』とか『駐車場あり〼』と張り紙をするのは珍しいことではない。けれどもその手書きの文字がやけに綺麗な毛筆だったものだから、彼は思わず立ち止まってそれを読んでしまった。
店主募集中。採用条件、苗字が三國であること。年齢不問、未経験者大歓迎。笑顔の絶えない楽しい職場です。お問い合わせはこちらまで。
こちらと言って、電話番号の代わりに「すぐそこ」という文字と朱色の墨で書かれた矢印があるので、三國は思わず電柱の向こうを覗いて見る。するとそこには広い軒先が見え、いかにも古臭くて流行っていなさそうな店が建っていたのだった。
まず最初に考えたのは、何屋なんだろうかということだった。その後になって、採用条件が何だってと疑わしい気分になる。もう一度よく見てみるが、そこには間違いなく自分と同じ苗字の漢字が二つ並んでいる。三國青年は、薄ら寒いものを感じてぶるりと背中を震わせた。佐藤鈴木高橋辺りとは比べようもないが、珍しい苗字かといえばそうでもない。耳馴染みが悪いわけでもなく、親戚以外にも特定の地域に行けばよく見掛ける程度のものだ。強いて言えば、漢字の組み合わせで数が減るだろうが、それでも日本全国津々浦々探せばいくらでもいるだろう。けれども今日、この時自分が張り紙を見たということが、少しばかり偶然の在り方を考えさせる。今までぼんやり暮らしていた自分が、就職活動をしようと思い立ったのが今日。いつもなら通らない道を、就職活動の為に通ることにしたのも今日。その就職活動の目的というのは、言わずもがな就職するということである。それでいてなんだって?苗字が三國の店主募集?自分が呼ばれていなかったとして、間違って返事をしてしまってもおかしくない状況だ。
まあ店構えも募集の仕方も、とんでもなく胡散臭いんだが。そう思ってもう一度電柱越しに覗き込んだ三國は、思わず苦しい声を上げた。運悪く店先に人が出てきてしまったのだ。しかもその人というのが、とび抜けて長身の男で、あばらが浮く程に瘦せており、おまけにスキンヘッドで、爬虫類を彷彿とさせるような悪い顔をしていたのが痛手だった。店の胡散臭さに拍車がかかる。目を合わせてはいけないと思った。思うには思ったのだが、三國が禿頭の男に気付かれない為には数秒の時間が足りなかった。
彼は最初、睨まれたと思った。しかしすぐに男が笑顔を浮かべたので、至って友好的な視線だということが判明した。だがその笑顔が実際友好的かというとそんなことはなく、蛇のような目が弧を描き、真っ赤な口が開いてにんまりと笑ったので、多分自分は獲物かなと思い直した。逃げたい、逃げよう。そうやって一瞬思考に捕らわれたことが恨めしい。男は逃がすかとばかりにすぐ近寄ってきて、電柱を挟んだ向こう側に立った。男は獲物に声を掛ける。
「君、苗字はもしかしてあれじゃないのか」
「はあ、まあ一応」
「数字の三に、クニの字は異邦人でも国語のそれでもなく?」
「難しい方のクニですね」
「素晴らしい!」
伸びる男の手は異様に素早かった。それこそ蛇が鎌首を上げて獲物に飛び掛かる時のそれだ。小さな悲鳴が三國の口から零れたが、男はそんなことぐらいでは怯まなかった。しかも何が気に障ったのか、男は腕や肩ではなく、胸倉を思い切り掴んだのだ。首の後ろが襟で締まる。殺されると咄嗟に思ったのは、三國が小心者だったからではなく、それがあまりの力強さを持っていたからだ。男の顔を近くで見ると所々に小皺が寄っており、それは遠目で見るよりも年寄りだった。男は先程も見た凶悪かつ不気味な笑顔で三國に言った。
「今日から君は我々の店長だ。さあ働きたまえ、稼ぎたまえ」
男は空いている方の手で電柱から張り紙を毟り取ると、有無を言わさず三國を店内へと招いた。その間、胸倉から手が離れることはなく、最後に座敷へ上げられた時など、ほとんど放り投げられるのに近かった。したたかに打った二の腕が痛い。そんなことを考えている隙に、禿頭の男は素早く玄関口に近寄り、サッシ戸を閉めて施錠をする。金属の擦れる音を恐怖と共に眺めた三國だったが、同時に彼の脳裏には幼少期の記憶が蘇っていた。この家の造りは祖母の家のそれに似ている。古い時代の、まだ敷地内に蔵があった時の建物だ。玄関口は広い土間で、多分家中にフローリングは一枚も無い。木材と畳と埃っぽい匂いがする。それが妙な居心地の良さを引き出していて、青年は思ったよりも自分が落ち着いていることに気付いた。未知への恐怖と懐かしさもまた同居するものなのか。何だかわからない不安定な気分がして、背中の悪寒が止まらなかった。
禿頭の男は、三國をほったらかしにして、今度は店の奥へと突進していく。高身長を日本家屋に押し込んだせいか、それは縮こまって猫背になっていた。妙に滑らかな動きを取ってもやはり蛇。どうお世辞を言ったって不気味だった。どうにか居住まいを正した三國は、さてこの蛇穴からどうやって逃げ出そうかと、奥へ消えていった男をしっかり見送ってから考え始めた。
だがよりにもよって、仕切り直しのそういう時にである。
「いらっしゃい、新しい店長さん。末永く宜しくね」
自分が転がっていた所の真後ろから声がして、三國は僅かに飛び上がると共に、自分が逃げられない状況にあるということを悟った。どうやら予め、この座敷には人がいたようである。目視で確認すると、古い文机で書きものをしているらしい。それは女であり、目が眩む程の美人だった。普段街中で見掛けたなら、今日は良い日だと感動していたことだろう。けれども蛇男に引きずり込まれ、施錠された上での出会いからは、もはや何事にも恐怖しか感じない。大きい瞳、長いまつ毛、透き通るような白い肌、ふっくらとした唇と柔らかい焦げ茶の髪、豊満かつ引き締まった女性らしい体つき。顔と言わず全身が、絵に描いたように整っている。綺麗が過ぎてややきつい印象のある顔立ちが、どこか人間味のない雰囲気を醸し出していた。自分は店長になるとも何とも言っておらず、面接どころか道端で名乗っただけに過ぎないのだが、どうやらこの女の中では既に就職が決定しているようだ。つまり、あの怪しい男の仲間ということである。
脱出は非常に困難だと三國は思った。「靴を脱いで適当にくつろいで」と女から言われたので、彼は仕方なく従った。足元に広がる灰色の土間を見ていると、くらくらと気の遠くなる気分がする。事の定番だが、彼はこれが夢なのではないかと一度疑ってみた。しかし、靴に触れると慣れた感触がしたので、それだけですぐに、これは現実だろうなと思えてしまうから嫌だった。
数分しても蛇男が帰ってこないので、悪い居心地を誤魔化す為に女に話しかけてみたところ、彼女は名前を「フタミ」というらしかった。数字の二に見ると書いてフタミ。そう教えてくれた女は、出来すぎた優しい顔でふんわりと笑って見せた。どきりというより、ぎくりとする。そんな笑顔だった。彼女は今のところ悪さをするでもなく、三國に対して至って友好的な様子だ。
友好ついでに、彼女はどうして三國が熱烈歓迎を受けているのか教えてくれた。
「うちは三國不動産っていうんだけど、ここ数十年店主がいなかったのよ。初代が遺言で、店主の名前は店名と同じになんて言うからこうなっちゃったんだけどね」
漢字まで指定する凝りようだったから、まあそんな人そうそう現れるわけもなくて。そう語る女の顔を見ながら、三國はまた寒いものを感じる。数十年という言葉が聞こえたが、まさかこの女自身が遺言に居合わせたわけではなかろうなと。普通なら、きっと入社してから先輩にでも聞いたのだろうと思うものだが、女の顔を見ていると不気味な想像に囚われてしまう。世の中にはありとあらゆる美女伝説が残っているものだ。ある者は生き血を啜り、ある者は異形の生物を食べ、またある者は生気を吸って生き永らえているという。そのどれにも共通するのが不老不死。美貌を維持するために、女達は恐ろしい所業に手を染めるのだ。
二見さんはその、と言いかけて三國は口を噤んだ。歳を訊ねるのは恐ろしい。たとえ伝説が妄想であったとしても、自分より少しだけ年上に見える女性に年齢を聞く恐怖は想像するに難い。二見は、なあにと甘い声を出した。矮小な青年は、そこに無いはずの威圧感を想像してしまった。
さて一方で、そうやって話していても蛇男は一向に戻って来なかった。不気味なものがいなくなったのは有り難かったが、状況が進まないというのは、また先程とは違った心苦しさを感じるものである。そわそわと座りどころが悪くなった三國は、正座したり崩したりを繰り返しながら、周囲を落ち着きなく見回していた。
座敷は六畳程の広さで、土間との間に仕切りが無い。足元が冷えるせいか、女はひざ掛けをしている。文机の上には真新しい帳簿と、横に積まれた年代も様々な紙の束。あるものは側面すら真っ白く、また他の束になると黄ばんで所々が劣化し欠けている。見れば周囲の壁伝いには本棚があって、類似した紙の束、あるいは本が所狭しと並んでいた。端に見えるのは巻物だ。古い建物に加えてそういう物が見えるので、余計に時代錯誤な印象がある。女が持っている万年筆の他に、脇に寄せられているのは硯と筆だ。随分と使い古されているようで、筆の柄が薄暗い色に染まっている。店主募集の張り紙はこれで書かれたのだろうか。煤けた匂いが鼻先までやってくるような気がして、三國はゆっくりと瞬きをした。
笑顔の絶えない楽しい職場とはよく言ったもので、今のところ確かに店員たちの笑顔が絶えない。いずれも向けられるとぎくりとする笑顔なのだが、当人たちは多分楽しいから笑っているのだろう。その楽しさを邪魔するのもなんだかなあ。そう考えていると逃げる気が失せてくる。現実的に見れば、逃げられないという状況がそうさせているのかもしれないが、三國はその時確かに店員達の心境に立ってみていた。話が本当ならば、数十年待ち続けた次代の店主だ。それはそれは、嬉しいことだろう。たとえその結果があんな笑顔になるにしても、自分は彼らの顔自体は偏見無く受け入れた方が良いのかもしれない。
そうだ、あれを彼らの標準的な笑顔とするならば、自分が望んでいるような朗らかな笑顔というのは、それこそ安らかに逝く時ぐらいしか拝めないものなのかもしれない。そこまで限定的な笑顔ならば、それを他人に望むのは酷というものだ。自分だって「昇天する時の顔をしてください」と言われたら、再現に困って多分変な顔をする。
そうやって考えることにより、自分の思考を矯正しながら三國は状況を眺めていた。次は何があるだろう。まるで店内が煩くなることを知っているかのように、頭が予想を立てる。これは予知などではなく、過去の体験と状況から導き出す予測だ。すると彼の想像通りに事が動き、店の奥からようやく禿頭がぬうと現れたのだった。
「あいつらめ、せっかくの店主ご登場を拝めないとは不憫だ。実に不憫だ」
男は、とても嬉しそうな顔ではにかんでいた。三國からすると、そのアイツラというのを殺して目視不可にしてきたんじゃないかと疑いたくなる程残忍な笑顔だったが、先程の凶悪な笑顔を基準とするならばそれは微笑みだった。三國は思わず唾の塊を飲み込んだ。音が聞こえたのだろうか、禿げ頭が振り向く。飛び掛かられるかと思ったが実際はそんなことはなく、男は笑顔を絶やさずに座敷の方へと上がってくるだけだった。
「いやはや、そう緊張しないでくれ。別に監禁しようとか、そういうことではないんだ」
嘘つけ。言いたかった言葉を飲み込んで三國は頷いた。男が座敷に上がると、一方で入れ替わるように女が立ち上がる。お茶を淹れてきます。嫌に事務的な声を残して奥へと引っ込んだ二見は、去り際に蛇男を睨んでいった。どうやらあまり仲がよろしくないようだ。だが男はそれを無視して、語り続けるのにご執心だった。
「改めて聞くが、君は今、失業しているんだろう?我々は君を待っていた。君はこの状況を見て断れると思うかね?思わないだろう?」
質問の形をしているが、これは是と言わざるを得ないように仕向けているだけだ。気が弱いわけではないが、別にそういう状況だと相手が言い募るのなら、是と答えても構わないと三國は思った。自分の意見があるのなら別だが、胸の内をよく分解してみて思うのだ。相手の熱意に反発できる程の強い意志が自分にはあるのだろうか。いやあ、そんなには無いかな。そう思ったのではないのか。熱意を跳ねのけるのには努力がいる。しかし、やってやるぞ、ここから抜け出してやるぞという気合が今の自分にあるだろうかと考えると、十分だとは思えない。仕事内容が未だ不透明な辺りは不安が残るが、いざとなったらやりようはいくらでもある。初手を打っておかないと物事が悪い方向へ行くと何事にもよく聞く話だが、実際のところはそうでないことも多い。ただ途中でやめるには、トカゲの尻尾の如く一緒に切り離すものが必要だというだけだ。それを惜しまないかどうか、というよりも自分が本当に惜しんでいるのかが肝なのだ。例えばひと月程前に会社を辞めるに当たって思い浮かんだことはいくつかある。収入の心配から始まって、一部の人間関係が壊れるだとか、身近な人間の言葉が煩わしくなるだとか。これからどうするだとか、新しいことを始めるのは面倒臭いだとか。けれどもそのどれを取っても、命に係わることはない程度の話だ。命あってのこの世。もっと言ってしまうと、命が無くても多分その先はこの世だ。
つまり今回の場合、この怪しい店に勤めると言ってしまったとして、何が起き得るのかが問題になるのだが。まず友人からの批難や、親に心配が掛かるといったことが予想できる。だがその二つは、職を公表しないということで何とかなってしまうだろう。収入の心配、これは言い方が悪いが貯蓄がものを言ってくるところだ。これ以降の人間関係については要観察で、今は何とも言えない。新しいことを始めるのは面倒だが、この怪しい古書の山を見ていると、一周回ってわくわくしてくるので問題なさそうだ。命の危険などそうあるものではなく、ここは怪しくはあるが自分も良く知る観光地の、通りにも面したただの古びた一軒家だ。現代社会には危険が増えたと言うが、危ない仕事がこんな田舎に転がっている筈もないだろう。
概ねヨシと判断を下した頭が、最後に疑問を投げかけてくる。曰く、家族や恋人に掛かる迷惑はどうするのか。三國は自分がそういった面でまっさらな状態にあることを改めて思い出し、これは絶好のチャンスだと考えた。独身で身の軽い今だからこそできることがある。前の会社を辞める時に友人が言ったそんな言葉に、彼は今になって勇気付けられるのを感じた。
「わかりました、断ったりしませんよ」
そう答えると、蛇男が笑った。どこからどう見ても他人を陥れたことに対する満足感を得ているようにしか見えなかったが、三國はそういう笑い方の人もいるのだろうと受け入れることにした。けれども茶を淹れて戻ってきた二見が、「命の危険について説明しましたか」と言っていたので、青年はさっそく間違えたかと渋い顔をしたのだった。
二見は茶を淹れるのが上手かった。隣の市で仕入れてきたという茶葉は、苦いが嫌な渋さは無く、日本家屋とよく合う深い緑色をしていた。お祝いですからと言って出された辺りを見るに、茶柱もわざと立てたものなのだろう。美人にされると小さな祝福も大きな喜びに転じる。隣で胡坐をかく男が、一気飲みをして二見を苛つかせていた。静かだかなんだか騒がしいような、そんな情景を三國は面白く感じていた。
「それで、命が危険に晒されるんですかここは」
何と答えるだろうか。少し意地悪をするつもりで話し掛けると、男は首を横に振り、女が大きく頷いた。人によるんだろうか。そうなると美人の女性を危険に晒して、この男というかおっさんは安全なところで悠々と待っていることになるのだが如何に。疑心暗鬼な部分が顔に出ていたらしく、蛇顔の男はこれまた嬉しそうににたにたとした。
男は最初に自分の名前を「五十嵐」と名乗り、事の説明をしてくれた。店の名前、業種、従業員の数、勤務時間、住み込み希望なら部屋の用意があること。それから、店主がすべき仕事の種類だ。大まかに分けてそれは三つ。店番、記録、探索。ここは不動産屋なので店番と記録は想像ができるが、探索とは何なのか。てっきり物件や土地を持っている人間との対話だとか、少し面倒な仕事を言い換えているだけだと想像していたそれは、三國の想像どころか今までの人生経験を覆してくるものだった。五十嵐は感情の起伏が激しいらしく、いやその起伏すらわざとやっている気配があるのだが、ともかく急に声を張ってこう言った。
「気になるなら見せてやろう!社会は経験あるのみだ、知識人の言うことなど聞いても腹は膨れんのだよ」
その知識人というのは、今しがた説明をしていた己のことを言っているのだろうか。大した自身だが、それを聞くなというのも矛盾があってなんだかおかしい。不審がるようなおかしさではなく、腹の中から面白い心地が湧き上がってくるのを感じて、三國は痺れかけていた足を伸ばした。五十嵐の方はと言えば、そんな悠長な動きなど構っていられないらしく、早々に靴を履いて、また先程のように奥へと引っ込んでしまう。あの奥の部屋には何があるのだろうか。疑問を思い浮かべるより早く、一瞬の内に戻ってきた五十嵐が、頭に山高帽を乗せて顔を覗かせる。早く来たまえ。言葉はまるで催眠術だった。その時全く恐怖を感じていなかったことを思い出して、数分先の三國はまたぞっとするものを覚えた。
勿体ないとは思いながら茶を一気に煽った青年は、二見に礼を言ってから座敷を降りた。小さな声で、気を付けてと女の声が聞こえる。これから行く場所は気を付けるべき所らしいぞと、命の危険の件が頭を過った。ともあれ足は半ば勝手に五十嵐の方へ進んでいる。湯呑を置いて、靴を履いて、土間を踏んで奥へと進む。薄暗く見えていたそこは、覗き込んでみると何のことはない廊下だった。左右にいくつか扉が付いていたが、今はそのどれもが閉まっていて、おまけに人の気配が無い。勝手に開けるわけにもいかず、呼ばれるままに五十嵐の背中を追うのだが、普通の家にしては廊下が長いように感じた。廊下は板張りだ。それが僅かに軋む音は、とても朗らかなものではなかった。よくある心霊話に出てきそうな廊下だ。時刻が丑三つ時だったなら完璧だった。そんな馬鹿な想像を掻き消したのは、その廊下を右に折れてすぐの所にあった、厳めしい扉だった。
大きさにして縦三メートル、横に二メートル弱。言うまでもなく巨大なそれが、家屋の壁にめり込むように据えてあった。扉の造りは頑丈で、鈍く光る真鍮は一枚板ではなく、溶接を繰り返しているようだ。周囲には同色の金属でできた配管がいくつも繋がっていて、よくわからない計器と、いかにも蒸気が噴き出しそうな穴が付いている。所々に巻かれたボロ布は、よく見ると一部が動物の革のようだ。その上に煤で汚れた軍手が乗っていて、何者かが時折扉を弄っているのだろうと窺えた。
「怯える必要はない。ただし少しだけ気を付けたまえ」
五十嵐は自分のポケットから皮手袋を取り出して、それを両手に嵌めた。こういう気取ったものがよく似合う男だと思っていると、五十嵐が壁に掛けてあったものを三國目がけて投げつけた。慌てて受け取って見ると、それは半ば袋に近い程大きなフードの付いた、マントというかローブというか、そういった見慣れない上着だった。被れと動作で示してくる五十嵐の顔が妙に真剣で、青年の喉が緊張で鳴る。初老の男は一度だけ振り返った後は、もう気を遣ってくれる様子も無かった。まるで三國が怯えたり怪我をしたりしないことを知っているようだった。五十嵐の両手が取っ手を掴み、扉の中で金具が外れる大きな音がするのを、三國はまるで見知ったもののように感じていた。扉の向こうに奇妙な親近感が沸く。上着をもぞもぞと被りながら、彼は光の差し込んでくるそこを食い入るように見つめていた。
幾重にも連なった石畳が、遠く向こうまで伸びている。足元には階段があって、五十嵐はそこを慣れた足取りで歩きだした。家の中とも、車の走る道路とも違った匂いがしている。土を含んだ水の匂い、深い森で嗅ぐ木々の匂い、焼けた煙の匂い、動物が闊歩する獣の匂い。開けた視界の中では、映画で何度か見た西洋の裏路地が広がっていて、すぐ先に見える石畳には馬車らしき車輪の跡が残っている。店の裏口に当たるその扉を潜れば、当然それに見合った住宅街の、味気ない景色が現れる筈なのにそうではない。それどころか見上げればマンションも電線も何一つなく、広大に広がる空と、何か巨大なものが羽ばたいて飛んでいくのが見えた。三國は足が竦むのを感じたが、同時に自分が口を戦慄かせて笑っていることに気付いた。そう、そこは身に覚えの無い世界。常識の外の異界だったのだ。自分が今まで生きてきて一度も見たことがない、外国とも秘境とも違った、全く知らない世界がそこには広がっていた。階段を踏み出す。足元に生えた雑草が、靴を避けるように動いた。潜んでいた鼠が、驚いた様子で足の先を横切って行った。四つ足なところは変わらないが、体長が三十センチもあればこちらだって驚く。加えて模様のように煌めく石が体のそこかしこに嵌っており、鼠を指差した五十嵐が、それを捕まえると小遣いになるぞと歯を見せていた。
「この都市にはいくつか名前がある。理由はこの街があらゆるものを内包し、吸収し、人々に意味付けされているからだ。身近なところではご老人方があの世と言ったり、夢見る人々が異世界と言っているのをよく聞くよ」
五十嵐は仕立ての良い靴をわざと鳴らして石畳を踏む。小遣いになる鼠が散り散りになって、周囲のあらゆる隙間で蠢く音がした。
「他には集合的無意識、アカシックレコード、フォーカス二十七、神の座、真理、夢、並行世界、天国、地獄、妄想などと言う」
「それはつまりこれが幻覚だと?」
「いいや、見る人が見れば拡張された現実だ。無論、見ない人が見れば目の錯覚だな」
三國は深く被ったフードの端を両手で掴んで、周囲に対する不信感を顕わにした。いくつか聞いたことのない単語があったが、最後の数個はわかる。真理だとか天国地獄だとか、つまりこれは世の中の宗教諸先生方が言う幻想の世界だということか。それなら最後に聞こえた妄想という言葉の方が余程納得ができる。見慣れないものに加えて胡散臭い単語を聞かされて、三國はすっかり不信に捕まっていた。しかしその座りかけた目を見て五十嵐は魔法でも掛けるように言った。
「ここがそれらだと言っている人がいるのは事実だ。彼らにとってはそれが真実なのであって、彼らは皆自分から見て世界がどういうものなのか、自分の言葉で説明しているだけなのだ。彼らがそう思えば、彼らの目に見えるものだけが目の前に現れる。さっき君が空に巨大な竜を見たのと同じようにだ。君にとって異界とは西洋夢物語のことを言うのかね?それなら耳の長い人間や小人たちがすぐに現れてくれるだろうさ」
からかうような物言いに、三國は羞恥心で顔が赤くなるのを感じた。確かに彼はつい最近、そういった映画を見たばかりだ。けれども、だから広い空に赤いドラゴンを見たのだ、なんて言ったらそれこそ幻覚の類ではないのか。そう考えていた矢先に、路地の向こうを耳の長い美しい女性が横切るのが見えた。ほうら、と嘲笑うような声がする。三國は更に深くフードを被り、隠れるようにして下を向いた。無数に並ぶ石畳の内いくつかが、身震いしているように見える。つま先で一つをつつくと針のようなものが突然生えた。隣の石畳が顔を上げる。ハリネズミだった。それはすぐに怯えたように丸まって、隣と同じようにして針を生やした。ファンタジーと言えばファンタジーだろうか。見たことのないそれに疑問を感じながら、三國は辛うじて見える五十嵐の足を追った。
一例を挙げよう。そうやって五十嵐は語り始めた。例えば君が死んで、自分は成仏したなと思ったとする。すると無宗教と言いながら中途半端に仏教やキリスト教に浸っている君の頭は、都合よく天国を想像するわけだ。或いは親不孝を無意識に感じて地獄へ行こうとするかもしれない。どちらにせよ同じだ。人によっては間に裁判所を通り抜ける場合があるだろうが、それもまた先入観の好き好き。つまり無意識にそうなると信じている様子に従って、君の意識は死を体感する。生きた肉体で培った常識が活きてくるわけだ。ところで常識とは常なる知識と書くが、その常というのはよく変動し万人共通でないことは知っているかね?君は色に疑問を持ったことは?降り注ぐ光の反射を捉えた目が、君の脳に赤色の信号を送るとする。その赤は何故赤なのだろうか。君は何をもってして赤を赤いと認識しているのか。赤いとは何だ、それは隣人が同じようなものをして赤いと言っているそれなのか。隣人の赤は君とっての青である可能性は?黄色かもしれない、緑かもしれない。赤いにしたって、朱色か紅色か何なのか君にはわからない。けれどもみんな口を揃えて林檎は赤い、太陽は赤いと言う。実際はほんの一万キロ行った所で黄色と言われている太陽を見て、君は赤だと宣言する。その色には君の意識が作用している。林檎だって赤い。君が他人の目を借りて見たら、ピンク色をしているかもしれないな。林檎の大きさは?君にとっては手のひらに乗る大きさでも、小さな子供には巨大に見える。それは見る人、つまり君が見れば体の大きさや見識の狭さによる違いだ。けれども別の見る人、一方での子供が見れば、君の林檎は彼らの林檎より小さいのだ。見たいものだけを見る能力に関しては、幼子の右に出る者はそう多くはない。物は、どこからどこまでを見るのか、それを誰がどの位置から見るのかによって変容する。君はそれを角度の問題だとか、見識の広さがどうだとか言うだろう。けれども事実、物は縮んだり膨らんだり、減ったり増えたり消えたり現れたりする。
ここは、それが少しわかりやすくなっただけの街だ。空気を深く吸い込みながら、五十嵐は煙草を吸うような仕草をした。吐き出した呼気に煙が混じっている。それはまるで、三國に見えない煙草がそこにあるかのようだった。吸うかね、と掛かる誘い文句をどうしようかと彼は悩んだ。そこにあるという、それを認めてしまったとして、自分の目はどうなるのか。煙草を見るのか、それとも煙草の感触だけを得るのか。
他人の言うそれを受け取らないという選択肢があった。けれども三國は思うのだ。その人がそうだと言ったとして、自分にはそれを否定するだけの熱意があるのかと。意見の衝突は、世の中の人間が毎日行うにしては、あまりにも膨大な力を使う。その熱量で家電を動かしたら、多分電力会社が泣き出してしまうだろう。困る人間が出るからなかなか開発されないのだと、笑い話に聞くものはいくつもある。新幹線より早く動く乗り物、どこにでも行けるドア、機械が行う代理戦争、食べなくても生きられる体。声を大にして否定する人は、それらに現実味を感じているから否定する。存在自体を全く無いものだとは思っていない。けれども否定された後の世間しか知らない人々はどうなのか。彼らは、いや自分達はそれを笑い話だと思うのだ。それが存在しない世界が現実であることを前提として、常識としてその後のことを決めている。非常識を突き付けられた人々はどうするだろうか。強く否定して怒ったり、恐れたり、存在してはならない理由を並べ立てるだろう。そこには熱気がある。自分の身を守るための熱意がある。否定するのにはエネルギーがいる。
「じゃあ、一本だけ」
三國は手を伸ばして煙草を摘まんだ。煙草は、ずっと昔からそこにあったかのような顔をして指の間に納まった。五十嵐が笑った。なんだ、やっぱりさっきまでのは悪意のある笑顔だったのかと三國は思った。
この街の煙草は旨いのだと、五十嵐は顔を通りの方へ向けながら言った。そうなってから初めて彼は街の名前を紹介してくれたのだが、それがどうにも聞き取り辛くて、三國は三度もそれを聞き返してしまった。いい加減嫌味の一つも言われそうだと思っていると、蛇の目がゆっくりと細くなって、まだまだ見識が狭いなとそれは言った。何のことやらわからず、言い返し損ねた青年を見かねて蛇は続けた。
「振り返ってみろ。うちの看板が見えるだろう?」
こっちの客用に、裏口にも看板を掛けているのだという声を聞き流しながら、三國はそうっと後ろを向いて、降りていた階段の上を見上げた。
そこにあったのは大きな板を彫って作った看板で、なるほど昭和初期かそれ以前からあるような年季の入った古めかしいものだった。書かれている文字を読み上げようとして、三國は少し声を詰まらせた。
「三國不動産と書いてあるんですか?」
「それ以外に何を書く?君には一体なんと読める」
三國は暫くぼうっと看板を眺めてから、短く「読めません」と答えた。正確には、知っている日本の文字だったが、彼はそれが何を意味する言葉なのか、読み方はどういったものなのか知ることができなかった。カタカナと漢字の組み合わせで構成されているそれは、文字数すら合っておらず、常用漢字でないものも混じっているようだ。とにかく見慣れないというか、見ていてあまり気分の良い並びではない。中国語を眺めている時に少し似ているが、読めなくて頭が拒否する具合はロシア語かアラビア語辺りと似ている。五十嵐は、店名が書いてあるのだよと言ってから、踵を返してさっさと先に進んでしまった。
ソ等廼テ澤哉亞。ポケットから電子機器を取り出した三國は、それを写真に収めると同時に、見えたままをメモに取って記録した。それは彼がその時の理解の範疇で、自分の目に頼って見た、その世界の一部だった。
店の裏口から続く先は細い路地だったようで、少し進むと街の大通りに出る。青年の目からして妙に見えたことはいくつもあったが、特に目立っていたのは二つ。街行く誰もが三國と同じように上着を深く被っていること、それから大通りの両脇に固まるようにして行き交っていることだ。彼らは皆なるべく顔を下げ、周囲の人間から憚るようにしているので表情が一つも見えない。また大通りは大変に広いのだが、人々のどれもが真ん中を通りたくないらしく、両脇に無理に固まるせいで往来が嫌に混雑している。三國は一瞬、空いている所を歩きたくなったが、皆がしないことには必ず理由があることを彼は知っていた。よって彼は人々の真似をして頑なにフードを被り、肩をぶつけながら混んだ道を我慢して歩いていた。
この中で顔を隠していないのは五十嵐だけだった。彼に他人と違うことを気にした様子はなく、けれども鼻にかけて威張っている気配も無い。彼にとってはそれが普通であり、また周囲の人々にとっても取り分けて気にするものではないようだった。皆が顔を隠す理由がだんだんと気になってきて、三國は五十嵐に声を掛けようとした。すると五十嵐は突然振り返って、猫を避ける時のように歯の隙間から鋭く息を吹いた。
黙っていろという、よくある仕草だ。三國は反発することなく言葉を引っ込め、雑踏の中を静々と歩くことにした。混雑に似合ってざわめいているが、その言葉のどれも聞き取ることができない。どんなに集中しようとしても駄目だった。目が疲れて上手く焦点が合わない時のように、一瞬聞こえかけた単語が耳の上を滑っていく。異国の言葉を聞いているようだ。しかしそれが日本語であることがわかる。わかるのだが、理解ができないのだ。それは、大人たちの会話を聞いてもよくわからなかった子供時代を彷彿とさせる。むしろ同じだ。知らないことは理解ができないのだ。
三國は自分の常識が僅かしか通用しない通りに立ってみて、鼓動が早くなるのを感じた。異様な興奮、高揚感。未知との遭遇。視界が光で満たされて、広がるように目が行き届く。睡眠不足の徹夜明け、妙に頭が冴えてハイになった状態と似ている。アドレナリンだかなんとかフィンだかが分泌されているのだろうか。自分が楽しい、或いは嬉しいと感じていることを知って、三國は再就職が上手くいったと感じた。命の危険についてはまだ頭の片隅に残っていたが、例えそうだったとしても、これがあるならやっていけるとまで思えた。先程吸った煙草に何か入っていたかと疑う気持ちがあったが、彼はそれを悠々と否定して五十嵐の後に続いた。
そうしてしばらく歩いていると、少し開けた広場に出た。五十嵐は広場の脇に構えたカフェへと入って行った。入口のすぐ近くにいた店員に何事かを言うと、男の姿はすぐに戻ってきて三國に声を掛けた。
「そこの席に座るとしよう。社会科見学だよ、三國クン」
五十嵐は店先のテラス席を指差して、気取るように帽子の鍔を触った。手には何の食べ物も飲み物も無く、彼ら二人はただ席に座る。また煙草を勧められたので三國はそれを受け取り、もう喋って良いですかと小さな声で尋ねた。特に咎める声は無い。青年の声はそれでも小さくなったままで、喋りにくそうにしながらいくつかの事を問い掛けた。
一つ目、この上着には何の意味があるのか。二つ目、何故声を立ててはいけなかったのか。三つ目、大通りの真ん中が空いていた理由。四つ目、五十嵐は顔を隠さなくて良いのか。五つ目、社会科見学とは何なのか。その全てを笑って聞いていた五十嵐は、もう少ししてから話そうと言った。今日は教えてもらえないのかと思ったのだが、そこに文字通りの時間的な意味合いを感じて三國は黙った。もう少し待つと、何かあるのだろうか。そう、例えば社会が見学できるだとか。そうやって予想していると、五十嵐が静かに人差し指を立てた。
その指の向かった先に、それは居た。丁度向こうの通りの方から歩いて来て、広場に出たばかりのようだ。広場が明らかにざわついている。フードを被った無数の人々は、皆首を揃えてそれを見て、釘付けになったように動かなくなった。フードの下で口ばかりが動いている。
そこにきて人々の言葉が意味を伴って耳に入ってくることに気付き、三國はよく耳を澄ましてみた。人々が言っている。あれは誰だ、あの顔は誰だ、どこかで見たことがあるぞ、彼は男だ、彼の目は大きい、彼の鼻筋は通っている、口元が印象的だ、顎が尖っている、えらが張っている、彼は彫が深い、ハンサムだ、いや二枚目だ、素敵だ。別々の所から聞こえる筈のそれが、何だか意思疎通を図っているようで、三國は気味が悪いと感じた。無数の口から言葉が出てくるのに、声色は似ていて単調で、まるで同一人物が喋っているようだ。また不思議なものが増えたと思って五十嵐の方を向くと、彼はそれじゃないと言わんばかりに指を振って、通りの向こうから来るものを見るようにと指し示した。
三國は正直なところ、あまりそれを見たくなかったのだ。けれども見学すべき社会とはそれのことであるらしいので、彼は苦いものを口にした時と同じ顔をしながらそちらを見た。そこには、巨大な顔が歩いていた。三國はメジャーリーガーを模したバブルヘッド人形というものを知っていたので似ていると感じたのだが、実際の頭はそれよりもかなり巨大で、頭対体にして二対一ぐらいの大きさがあった。頭にはヘリウムでも入っているのだろうか。重力を全く無視して普通の歩行者と同じように身軽に動き、顔は苦痛を全く見せずに満面の笑みを湛えている。それがヘリウム人間だったとしても、中身が詰まっていたとしても、何にしても自分が知っている生物ではない。ただ体は普通の人と同じ大きさをしていて、頭が巨大だということ以外は人間と非常に類似しているので気持ちが悪い。大きな顔が笑っている。目を細くして、口角を上げて、ある時は白い歯を見せる爽やかぶりで笑っている。それがフードの人々にこまめに手を振っているのを見て、三國は既視感に襲われた。
「五十嵐さん、あの人……」
知っているぞと青年は気付いた。それは怠惰な朝食を前にしてテレビをつけた時の事。朝のバラエティじみたニュース番組で、新しく始まるドラマがなんだのと言ってそれは現れた。若手俳優で最近人気急上昇中だというその男は、少し日に焼けた肌から見える真っ白い歯が印象的だった。ただし顔の大きさは普通。むしろ常人に比べて小さい方で、そのモデル体型が随分と褒められていたものだ。番組では過去、俳優が歩んできた修業時代を紹介していた。昨今では珍しく劇団員からの叩き上げで、少し前までは劇場などでよく仕事をしていたそうだ。そこでたまたま大手芸能事務所の社長に目を掛けられ、少しの演技指導を受けた末に大ヒットしたらしい。演技指導ねえ、と三國は事実を疑う気分になった。そんなことで人の運命が容易く変わるものだろうか。いや、それを言ってしまうと、大手の社長に目を掛けられる時点で俳優は運命を掴み取ったのかもしれないが。
五十嵐はつまらなそうな顔をしていた。何ですかと尋ねると、すぐ気付くとは面白くないと言っていた。歳は六十近いだろうかというこの男は、悪い意味で少年の心を忘れていないらしい。三國は五十嵐の顔を真似て、むくれた顔を作ってやった。
「あの男のようにでかい顔をした奴のことを、この街ではカリスマと言うのだ」
カリスマってちょっと古い言葉ですねと、ついでに冗談を言ったところ、ついに三國は舌打ちを食らった。彼は失礼が過ぎたと詫びて、重ねて冗談であるとまた詫びた。五十嵐はわざと疑うような顔をしてから、何故かふと、本当に楽しそうな顔をした。良い意味の少年が現れた。そう思ったが、これ以上叱られても困るので青年は口を噤んだ。
五十嵐が言うには、この街では他人に顔を見せるというのが大きな意味を持つという。先に集合的無意識という言葉を使ったがと前置いて、初老にしては鋭い目が三國を見る。思い当たるところのない青年は片手を扇ぐように振った。知りません。素直な反応に五十嵐の気分は良くなった。言葉は続いた。
この街は、潜在意識の一部に作用している。こうして道行く人々は、我々のような一部の物好きを除いて皆知らずとここに来てしまっているのだ。君のように体ごとこちらに招かれる者は稀にして幸運で、大抵は心や意識の一部だけがこちらへと現れる。それは白昼夢と言ったり、妄想や空想と言ったり、眠っている時に見る夢も含まれる。まあ夢に関しては大体が、ここからもっと行った所にある渓谷に落ちてしまうのだが、明晰夢などを見る者は街に来ることも多い。身心が完全に揃っていない彼らは皆ぼんやりとしていて、意識としては大変に無防備な状態だ。だから見たもの、聞いたものに過敏に反応してしまう。この街で知らずと仕入れてしまった知識が、深層心理に働きかけて、現実世界の彼らを変えてしまうのだ。顕在意識の方は、それを見たり聞いたりした自覚が無い。だからどうして自分が影響されているのか疑問には思わないし、それどころか影響されていることにすら気付かないのだ。例えばそうだな、この前私は同僚の男を一人連れてここに来たのだが、そこで大通りの真ん中に出ていって、大声で現代社会の無謀運転と無謀な歩行者について訴えかけたのだよ。車が歩行者を轢いて罰せられるのなら、決まりを守らず轢かれるような行いをする歩行者もまた同様の重さで罰せられるべき、だったかな。すまない、大声を上げたのは私ではないのだよ。そう、全てはあの同僚が悪いのだ。悪い奴だ。そいつのせいで、大通りを行く数多くの人間がその不条理さを知った。罰せられるべきなのかもしれない、そうであるのかもしれないと思ってしまった。その結果は凄惨なものでね。さっきの道を戻って店の表に抜けたら、世界が変わっていたよ。嘘ではないさ。無数の人々が望むような、見たいと思ったものに現実世界が変容したのだ。見たかったものがよく見えるようになったといったところかな。あっちは多数決なところが大きいせいか、大多数の支持を受けるとすぐ変わってしまうのだ。こちらより余程不安定だよ。現実だって人の数だけあるわけだからな、ころころと落ち着きなく変わり続けるのだ。おっと話がそれてしまったが、つまりそのぐらい強烈な刺激だと私は言いたかったのだよ。この街の大通りで、取り分け広場なんて人の密集した場所で顔を晒せばどうなるか。顕在意識の現実世界では、皆がその人を見たことがあると感じるようになる。私は彼を知っていると親近感を持つのだ。それだけならまだしも、知っているという ことを所有感だと認識する人もいれば、憎しみや愛情の対象だったと錯覚してしまう人もいる。普通の人間は無数の人間からそう思われることに耐えられない。何しろこちらは相手のことを微塵も知らないのだ。ある日突然大量の良心とストーカーに囲まれる姿なんて、可哀想であまりにも面白い。失敬、想像を絶する苦しみだ。涙を禁じ得ない。だから彼らはその恐怖を避けるために皆覆いを被って顔を隠すのだよ。まあ、たまにあまりにも無防備が過ぎて裸同然でやってくる奴もいるが、大体は現実に戻って犯罪に巻き込まれるか、何故か嫌われると言って泣いているな。だから君がそうしているように、上着を握りしめるのは正しいのだ。対して顔を覚えられても困らない、むしろ得をするあれらは何者なのか。それは芸能人、宗教家、政治家、あらゆる目立ちたがり屋……あとは野球選手もそうだな。アメリカのあの人形を見た時は、我が社一同三日は笑いの種だった。未だに笑えるとも。何しろあれそっくりに作られているからな。あれらは、ああやって自分の顔面を大きくより目立つようにして人々の潜在意識にこびりつく。有名になるのは簡単だよ。好印象になるのだってそうだ。ああして笑っていれば、悪意よりは親近感の方がいくらか多く得られる。あれが三体も揃えば圧巻だ。不気味な笑顔の巨大な顔が、いくつもふらふらと歩いていて、少しでも気を緩めると目を合わせてくるのだ。だからあまり見過ぎるとこっちを向くぞ、気を付けたまえ。
大きな顔がぐるりとこちらを向く仕草をしたので、三國は咄嗟に顔を伏せた。間一髪だ。巨大な顔は、なんだ気のせいかとばかりにまた周囲へ手を振り始める。三國の心臓は早鐘を打っていた。先程の高揚感とは全く別の、肝が冷えたが故の鐘である。
「あの俳優は上手くやるだろうか、わからんね」
五十嵐は煙草をふかして背凭れに沈んだ。その飽き飽きした顔を見ていると、きっといつも多くの人がこうして頭を膨らませて通りを歩いているのだろうと想像できた。だが現実にそれほど顔を覚えられ、尚且つ成功している人間が何人いるだろうか。ある者は一発屋で終わり、ある者は結局私生活に支障をきたし、最悪薬が何だのと話題になってワイドショーに華を咲かせることだってある。この街でカリスマになれたからと言って、それすなわち成功とはいかないのだろう。深層心理を弄ろうというのだから、それぐらいのリスクは当然なのだろうか。そこまで考えたところで、三國の頭を疑問が掠めた。
「目立ちたがり屋な彼らは、俺と同じように体全部でこっちに来てるんですか?」
五十嵐は違うと言った。勿論、自らああやって変貌する胡散臭い教祖のような人間もいる。けれども大抵は皆と同じように、上着を被ってぼんやりとこの街に現れる。
「だから誰かが奴らのフードをひん剝いて、大通りに放り出すのだよ。その敏腕加減たるや、人の心があるのかと疑いたくなるね」
演技指導ねえ、と三國は再度疑った。カリスマ若手俳優は、頭をぶりぶりと揺らしながら広場を横切って行った。それがいなくなるとようやく無数の人々は正気を取り戻したが、彼らの口からはまだ、俳優の話題がいくつも零れ出していた。自分だって今後事あるごとに思い出してしまうだろうが、それは決して良い印象ではない。異常に大きな頭と、張り付いた笑顔。気味の悪いこれが社会科見学だと言うのなら、この街にはあとどれだけの異常が含まれているのか。
彼は自分の常識が勢いよく塗り替わっていくのを感じる。背中が寒かった。気温のせいではないそれに肩を震わせると、五十嵐はどこか満足そうにして、山高帽を深く被り直した。
今日のところはこれで良いだろう。五十嵐は号令をかけると席を立ち、店員に礼を言って広場を後にした。三國はその後を相変わらずついて歩いたのだが、一つ疑問が解決していないことを喉の奥に詰まらせていた。皆が上着を被る意味。雑踏で声を立てることと、通りの真ん中で注目を集めることの危険性。見学する社会の一部とは何を指すのか。解決したそれらの他に不思議だったことは、五十嵐が顔を晒していて平気なのかということだった。
先程の話を思い起こしてみると、顔を晒すのは不利益が大きいことのようだ。五十嵐のように「蛇のようだ」とか「悪人面」と言い切ってしまえる程特徴的な顔ならば尚更、覚えられやすく、暮らしていくのに不便が多そうなものである。ならば普通に行くなら、顔を晒してはいけないということになる。しかし、当の五十嵐は気にした様子も無いのだ。ならば、何かしらの利益があるのだろう。
三國はそれを深く追求しても良いものかと悩みながら、一度見た石畳をまた踏んでいった。うっかりするとハリネズミまで踏んでしまうので、足取りは慎重だった。
「五十嵐さん。俺、今日の見学で不思議なことが一個あったんですけど、訊いて良いもんか悩んでます」
三國は正直にそう言った。五十嵐は何だろうかとしらばっくれながら、山高帽を取って、擦れ違った人間に挨拶をした。彼は三國が何も言わないのをしばらく観察して、勿体ぶるように言った。
「This Manだよ。私に限らず同僚は皆ディスマンで、ディスウーマンなのだ」
「何ですかそれ」
「私達は存在するが存在しない。いわゆる、みんなの心の中にというやつだな」
五十嵐さん死んでるんですか。そう言うと初老の男は皺を増やして随分と笑った。どうやら違うらしいと思って三國は悩む。ディスマンとは何だ、特殊な単語か何かか。すると見かねた五十嵐が、三國の知らない言葉で話し始める。曰く。
「今日見た街は、君がこの街をこのような街であると思っているが故に今日のような街だったのだ。また、これから帰る現実世界は、君が君の視点から見てそのようであると思っているからそのように見えるのだ。我々は君達、そして私達人間が想像すること、現実だと思っていること、常識や感覚を切り売りする。私は私を人間だと思っているから人間だが、このような街に干渉されるまでもなく人間なのだ。この人間という言葉が指すものが、私と君との間で食い違っている可能性を考えてみたまえ。それは現実が変容するのと同じ仕組みだ。人ひとりの意志で、そうだ軽く指一本で押してやるだけで、それら全ては瞬く間に変わる。我々はその変化をつぶさに観察し、理解し、共感し、売りたい人の為に分析し、それがどのようなものであるのか紙に書いて起こす。そして買いたい人の為に声を大きくして触れ回り、説明し、理解させ、共感させるのだ。我々は誰にとっても隣人であり、また誰にとっても正しいことを言っているように錯覚されなければならない。ただ現実に生きていると支障が多いので、現実には生きていないだけなのだ」
耳の上を滑って行った言葉を聞いて、三國は何となく、まあこの人の中ではそういうことになっているのだろうと曖昧な理解を示した。その飲み込めていないと顔全体に書いてある様子を見て、五十嵐は思い切り腕を振り回し、階段の上目がけて指を突き付けた。
「見たまえ!君だって見たい現実を選択しているのだ、今そうまさに今!」
指の先にあったのは、三國不動産の大きな看板だった。古ぼけた板はそのままに、そこには認識できる言葉が並んでいる。
読めている。その感動と畏怖を口にするより早く、看板の下の扉が開いたので三國は口を噤んだ。見ると二見が顔を覗かせていたのだが、その顔は渋く、眼孔は真っ直ぐに五十嵐を睨んでいるようだった。彼女は言った。
「テレビ見た?空前の爬虫類ブーム到来、特にコーンスネークが人気ですって」
誰かさんが最近よく一人で街をうろついてた気がするんだけど、誰かさんって誰だと思う。女の声は地を這うように低くなっていた。そんな彼女に五十嵐は、私は出歩いたが蛇は見かけなかったなあと歌うように言った。こういう日々の積み重ねが、二人の仲を悪くさせているのだろうと気付いて、三國はそれを止めるかどうか考えてみた。店長としてはどうすべきだろうか。今のところ店長らしいことを何一つしていないどころか、業務の説明すらされなかったことを思い起こしながら、三國の脳は既にノーのサインを出していた。
声を潜める様子も無く、堂々とした二人の声は、声色を覚えられることに何の躊躇もないようだった。振り返ると、路地の向こうから何人かの人影がこちらを覗いている。三國は大きな看板を見上げながら、これから始まる新生活に思いを馳せた。
現実仲介業、三國不動産。
その古い看板はすっかり慣れきった様子で、三國が戻ってくるのを静かに眺めていた。
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