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喫茶心臓
異界潜水用視覚矯正眼鏡弐式。通称、センスイメガネ。
旧式の漢数字が並んだダイヤルや、歯車、よくわからない計器諸々がごてごてと付いたそれを掛けることにより、使用者は任意の現実を見ることができるという。胡散臭いの一言に尽きるそれが必要だと言い出したのは、社員の中でも一番の落ち着きを放つ、四ツ谷という歳のいった男だった。
「慣れるまでは多分、目も頭も参っちゃうと思うんだよね僕は」
言葉を向けられたのは、新入社員兼店長の三國青年だ。彼は業務説明の一環で裏口から異界に連れ出されたり、過去の帳簿を見せられたりしたのだが、今のところピンとくるものが一つも無い。要するに、業務が今一つ理解できないでいた。
三國不動産が扱うのは、現実の土地や家ではなく、主に人間の常識や自覚、世界がどう見えるのかといった心的なものだ。そういったものが切り売りできるとは露知りませんでしたと三國は先日発言したのだが、店員たちは皆、じゃあその常識を覆すところから業務を始めようと言った。彼らが言うところによると、常識、およびその人の知覚するあらゆるものは、どこからどこまでと範囲を決め、誰がどこから見るのかと視点の位置を決めることで顕わになるという。彼らの仕事はそういった尺度を紙に書き起こすなどして目に見える形に変え、他人から他人に売買することらしい。つまり常識や、目に見え体感している現実世界は、人によって異なり、三國不動産をもってすればその特異な感覚を他人に植え付けることが可能だということだ。洗脳かと尋ねた三國を、二見の美しい声が「真っ当な取引です」「お客様は進んで当店にいらっしゃいます」と突き刺した。
ともあれそういった業務を行うにあたり、店員たちに要求されるのは、新しい世界、つまり物件への理解と共感だった。例えばある価値観を売りたい客が来るとする。客は自分の世界が常識だと思っているので、それがどういった性質を持つのか知りもしない。そこで店員は話を聞き、対象を観察することで理解を深める。その物件の何たるかを自らの手で探り当てる。そして物件提供者が納得し、尚且つ他人が理解できるように書き起こさなければならない。それは特異な技術だ。誤解を生んではならないというのが、不可能に近い程の障害を作っている。一人の人間が持っている世界観を、丸々他人に移すなんて、双子の間でも無理な話だ。普通なら確実にどこかで綻び、軋轢が生じる。
特別な機械にでも掛けて透過するのかと思いきや、三國不動産ではプロフェッショナルを育成し、その人の手腕をもって売り手と買い手を近づけるのだそうだ。そんな馬鹿な。三國は最初疑ったが、そういえばこの人達は自分の思う人間らしい人間ではなかったと思い直した。確かに、そうこれは例えばの話なのだが。普通の人間は時代を超えて生きたりしないし、若さを維持するために不死鳥の如く焼死を繰り返したりしない。特技は変身と言って目の前で姿を変えたり、実は僕もと言って突然人ならざるヘドロの姿になって喋り出したりもしない。対する自分の人間らしさといったら、多分彼らよりは共感してもらえるだろうと三國は自信を持って言えた。そんな彼だからこそ困るのは、三國不動産の通常業務が満足にできる気がしないというところだった。
そこで登場するのが、先にも述べた潜水眼鏡である。掛けることによって他人の現実世界に同調できるそれは、例えばすぐ隣にいる人間を眼鏡越しに見れば、その人が普段何を見て何を見ず、何を好んで何を嫌い、香りを嗅ぐ時や物を聞く時の全てに至るまで、同じ感情・感覚を味わうことができるという代物だ。つまりその人に成れるということなのだが、自意識は元の個人のままにしてくれるというのだから不思議である。私があなたになったなら。あなたの気持ちになって考えてみた。それを地で行く夢の装置だ。
電気信号で脳に直接働きかける壱式に改良を重ね、遂に完成した弐式は、目に見える現実世界の方を作り変えてしまう。体への負担は当然減り、加えて重量は従来品より三百グラムも軽い。ベテランになれば自らの意志で他人の世界を覗くことができるのだが、これは研修用の器具で、潜水眼鏡を通して見ることにより異界を見る癖をつけられるという寸法である。より安全になった潜水眼鏡は画期的かつ革命的で、前時代の生身の店主たちが羨むこと請け合いである。そう宣伝されて、三國はなんだか自分が得をしているような気分になった。
だが残念なことに、前の店主が開発した後しばらく使っていなかったせいで、それはうんともすんとも言わなくなっていた。活躍の機会が少なかったのも一つの要因だろう。家電は使っていないと壊れるとは有名な話だ。よってこれを修理しなくては三國が困ったことになるのだが、その精密な技術を持つものは、生憎とこの店にはいなかった。
「すんません、デカイものならどんと来いなんですけどね」
そう言って眉を下げるのは整備士の八木山という青年だ。彼の手に掛かれば、異界直通の何処でも行けるドア、店員によってその場で好きな部屋を生み出せる不思議な応接室、無限収納の押し入れ、そのどれであろうとすぐさま直せてしまう。けれども彼は潜水眼鏡のような小さな精密機械には明るくないらしく、どちらかと言えば専門は空間転移術であるとのことだった。ならばどうするのか。この店にこれ以上機械弄りの得意な人間はいない。すると四ツ谷が静かにすうっと手を挙げた。まさか四ツ谷さんが。そう息を飲んだ三國に、彼は朗らかに笑って言った。
「直せるところ知ってるよ」
それはつまり、専門業者があるということでしょうか。確認する間もなく上着を羽織った四ツ谷を見て、三國は慌ててローブを取りに走ったのだった。
潜在意識の世界は、中心街の街並みを抜けると、いくつかの別の街や山々、極彩色の庭園などに行くことができる。その中でも入口からして一見さんお断りというか、どうしても入りにくい雰囲気を醸し出しているのが、ダエスという甘い煙に包まれた街だった。中心街に比べると勾配が多く、入り組んだ造りをした住宅街だ。そこは賢者の宿街と言われていて、外の世界に見切りをつけた者や潜在意識の世界に魅入られた人々が、元いた場所を捨てて永住する為に集まっている場所だった。細い坂道の両側を、背の高い住居が取り囲んでいる。計画的でない設計が窺えるその街並みは、増築に増築を繰り返し、入口や窓が四方八方にくっついていた。窓の隙間から漂い出ている煙は、隠遁者達が好んで吸う水煙草のものだ。果物、煮詰めた砂糖、花、時々スパイシー。それらが入り混じる通りの香りは、悪くはないが頭の悪くなりそうなものだった。つまり何か妙な薬品でも入っているんじゃないかと、そう勘ぐりながら三國は一所懸命に袖で鼻を塞いでいた。嗅いでなるものか、自分はこうなるものかと、彼は窓の奥に幾度も見た呆けた老人を敵視していた。
彼をここまで連れてきた四ツ谷は、そんな気構えが無いどころか、すっかり慣れ親しんだ様子で意気揚々と坂を上っていた。ここの食堂は旨いんだとか、そこのバーでは珍しい酒が飲めるとか、随分と詳しい様子である。なるほど、会社で見送りをしてくれた二見が、何となく心配そうな顔をしていた理由がわかった気がする。この男、悪い遊びを覚えさせる気満々なのではないか。温厚そうな顔と物腰をしているのに、人をかどわかす悪い所は全社員共通だということか。さっそく水煙草屋で寄り道をする四ツ谷の背に向けて、三國は細くした視線を送っていた。すると察したのだろうか、焦ったように振り返った四ツ谷は、ここはもう少し人生の深みが増してからだねと急に年寄り臭いことを言いだした。
「ええと、今日の目的はほら、そこの喫茶店だよ」
この気弱そうな様子を見ていると、五十嵐には勝てそうになくても、四ツ谷ならなんとかできる気がする。三國は社員の制御に一筋の光明を感じながら、指差されるに従って視線を移した。するとそこには喫茶店の名にふさわしく、木目の洒落た看板が一つ掛かっていた。喫茶『心臓』。木目にそのまま臓器のシルエットをあしらったそれは、異界においても一際趣味の悪いものを醸し出していた。
何故心臓なのだろう。その疑問は扉を開けた瞬間に解決する。こんにちは、とよく響く挨拶を発した四ツ谷は、何の躊躇もなく店内へと入って行く。しかし三國はぎょっとして足を止めると、そちらをなるべく見ないようにして顔を下に向けた。
「坊主、見ない顔だな。もしかして四ツ谷さんとこの新しい店長かい?」
そう気さくに話し掛けてくるのは、ちょび髭を生やした真っ黒い人だった。真っ黒いというのは肌の色がどうとかではない。そこだけ空間に穴が開いたかのように、ぽっかりと人型に暗くなっているのだ。目の錯覚のような、遠近感の狂う感じが目頭を襲う。鼻の下にだけ毛が生えていて、それは何度見ても綺麗なちょび髭だ。だからといって、見たことの無いものをすぐさま許容しようという優しい気持ちにはならない。だが人影の方は、まだ見るに堪えないという程のものではなかった。三國はそれはそれでヨシと思った。それがつまり許容したということではないのかと他人なら問うだろうが、三國は生憎とちょび髭の影を認めたことに気付いていなかった。
何しろ彼は先程から見える、見たくないそれを避けるのに必死だったからだ。それは血肉滴る鮮やかな赤色をしていた。今にも脈打ちそうなそれは完全に停止していたが、周囲を取り巻いている水と泡が、その塊に命を吹き込んでいるようだ。それは大きめの透明なポッドに入っており、一見するとホルマリン漬けのようだった。けれどもこんなに血色の良いホルマリン漬けは無いだろうと、三國はグロテスクなそれを嫌がりながら結局観察してしまっていた。見ればポッドからは何本かの管が生えていて、そこから空気や水を循環させているようだ。更にポッドの下からは黒い影が伸びていて、それが更に伸びに伸びた先にはちょび髭があった。どうやら気さくな店員は、この心臓と少なからず関係があるようだ。四ツ谷さん。縋るように言った三國は、カウンターに案内されるがままになりながらもしっかりと動揺していた。
怯える三國をにこにことして見ながら、四ツ谷は影とそれに繋がる心臓を紹介してくれた。彼の名前はシンゾーさん。そのまんまである。
「シンゾーさんはここの喫茶店のマスターで、とっても美味しい珈琲を淹れてくれるんだよ。うちの二見ちゃんは、ここで珈琲と、あと緑茶も紅茶も淹れ方教わってたっけなあ。僕はナポリタンの作り方を聞いたんだけど、結局上手く作れなかったんだ」
その件は本当面目ない。困り顔で眉を下げる四ツ谷を、がははと笑い飛ばす声がする。声は影から出ている。口や目は見て取れないが、ちょび髭が震えるように動いていた。声はその辺りから出ているらしい。シンゾーさんは一度床の木目の間に吸い込まれると、すぐさまカウンターの向こう側に現れて珈琲を淹れ始めた。いつもので良いかいと尋ねる声は、質問というよりも確認だ。それに元気よく返事をして、四ツ谷は「彼にも同じものを」と酒の注文をするかのように気取って言った。
サイフォンの立てる、どこか眠くなる音がする。よくよく嗅いでみると香ばしい匂いに混じって、街で嗅いだ水煙草の甘い香りがする。結局のところ自分は流されやすく、こうして何となく過ごしているうちに呑まれてしまうのだ。三國は香りを吸い込んでいる自覚をしたが、いつもの通りそれを否定してまで自分を保とうという気は湧いてこなかった。なるようになってしまえば、自分はそれで納得してしまう。そう思いを馳せていると、この一風変わった店主も何だか見慣れてきたような気がして、三國はまあこういうもんかと深く息を吐きだしたのだった。
「シンゾーさん、前の店長が使ってた潜水眼鏡覚えてる?」
「ああ、あの妙にごてごてしたやつか」
「あれ壊れちゃってさ」
「だろうな。余計なもんばっかくっつけてるから精度が落ちるんだよ。昼飯代うちで置いてってくれるんなら直してやるぞ?」
「ああ、流石シンゾーさん。話早い、素敵、珈琲が旨いよお」
カウンターで感激のあまり伸びきった声を出した四ツ谷を、黒い影が引っぱたく。行儀が悪いとの叱責にも親しみが籠っていて、話からしてもどうやら二人は旧知の仲のようだと窺えた。三國は何となく肩身の狭い思いをしながら、出された珈琲の器を眺める。真っ黒い水面に、先程のポッドが写っていた。グロテスクな心臓が見える。血色を省いたその映像を見ていると、これもそんなに目を背ける程のものではないと思えてきて、三國は視線をポッドの方に投げてみた。
「どうだい兄ちゃん、俺のハートは綺麗だろう?」
視線に気付いたシンゾーが、嬉しそうに声を掛けてくる。そこに冗談を感じ取って笑って返せるぐらいには、もう三國は落ち着いてしまっていた。ほんの少し前まで、自分は動いて喋る影も、生きているような生の心臓も見たことがなかったのに。自分の常識がすり替わったのがわかって、青年は業務の一端を垣間見たような気分になった。他人の常識を見たり共感するとはこういうことだろうか。それならば自分は得意中の得意。何しろ二十数年、他人に流され続けてきたのだから。
「ええ、人柄が滲むようですね」
そこには青年の確かな微笑みがあって、シンゾーは少しだけ驚いてから、すぐ四ツ谷の方を向いてにんまりとした。口の無いそこに笑顔があるのが見える。四ツ谷さんはそういうのが見えているから仲が良いんだろうなと、三國は旨い珈琲を啜りながら考えていた。
シンゾーさんは昔から手先が器用で、先代とは随分仲が良かったんだよ。僕にはわからない機械の話とか、仕組みの話とかね。
そうやって語る帰り道の四ツ谷は、来る時よりも背筋を伸ばしていた。喫茶店に行ったことが嬉しかったのだろう。そう想像していると、自分も何だか嬉しくなるように感じて、三國はすっかり相手に同調してしまっていることに気付いた。四ツ谷の手に納まった異界潜水用視覚矯正眼鏡弐式は、参式かと思う程スマートになっており、更に各パーツ磨き上げられて、本来の真鍮の美しくも鈍い輝きを取り戻していた。これで君も暮らしやすくなるだろう。そう言って目を細めてきた四ツ谷の顔は、まるで孫でも見ているように柔らかかった。
帰りの坂道を下っていると、三國は自分が見る景色が変わったことに気付く。ほとんど閉まっていた筈の窓が、大きく開いている。軒先に白い髭を生やした老人が座っている。露店がいくつも開いていて、往来には人の気配がある。四ツ谷には、急に活気づいた街を不審がる様子が無い。ということは、行きの道も見る人が見ればこうなっていたのだろうか。三國は不思議な心地を味わいながら、四ツ谷の後をついて歩いた。
「四ツ谷さん、ここの人達はあんまりフードを被ってないんですね」
「そうだね、彼らは僕達みたいなものだからね」
つまり皆の心の中に?そう言って返した三國の方を、歳の寄った笑顔が振り返った。
慣れてきたじゃないかと嬉しそうな顔には、まるで誰かを思い出しているような若々しい輝きが宿っていた。
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