寄生

1/1
前へ
/5ページ
次へ

寄生

 女は悩んでいた。漠然と気を揉んでいるのではなく、問題を明確に見つけ、それについて深く考えたが、一向に解決する兆しが無いという意味で悩んでいた。彼女が見つけた問題は、よくある対人関係の軋轢だった。 「どうしてか嫌われるんです、わたし」  どうしてだろうなって思うんです、考えてもわからないんです。言い連ねる声には力が無く、口の隙間から吹き出る程度のか細さだった。その日店番を任されていた三國青年は、脳裏に物件をいくつか並べてから、改めて客の話に聞き入ることにした。  青年専用に組み替えられた応接室は、若者が好むシステマティックな清潔さを持っていた。よくある賃貸物件紹介会社の窓口だ。三國不動産が居を構える日本家屋は、入口こそ古めかしい土間と店の間が目立っているが、一歩入ればいくらでも望むように変容するという不思議道具もびっくりの柔軟さを持っていた。この応接室が最たる例で、三國不動産専属のエンジニアが整備するそこは、店員それぞれの固有の形に変貌するよう造られている。文思元年生まれの辛うじて若者、いや十分に三十路を食った三國が入れば、そこは小綺麗なよくある窓口。五十嵐が入れば、嫌味な程に重厚感のある赤絨毯や調度品の揃う部屋。四ツ谷なら、土間からそのまま続くような落ち着いた和室。二見なら、少し可愛らしく女性好きするカフェのような部屋に変わる。客への印象を左右するということで採用されたそのシステムは、今日のところ、他のどれよりも本日の客に適しているものを引き当ててきたようだった。  安心感や同情よりも、さっさと手を打ってほしいと期待するような眼差しが三國の方を向いている。話を聞かないことにはどうしようも。そう言いかけた三國は、女が一枚の紙を机に置こうとしているのを見た。ああそうか、今日のお客は持ち込みの希望物件があるのか。三國は煙草を吸いたい気分になりながら、遮るようにして、飲み物の好みを訊ねた。  接客の際には美味しい珈琲、または緑茶やほうじ茶で吊るものなのだ。先輩である五十嵐が自信満々に言うので、三國はインスタント以外のそれらの淹れ方を覚えた。入社して間もない頃の話だ。その頃は客の要望もわからずに、大体が誰かに付いて勉強するばかりだった。毎日が新しい発見に溢れていた。恐ろしいのは、ここに勤めて数年が経った今でも、新しいものが降り注ぐ毎日を送っていることだ。人間の数だけ発見がある、客の数だけ新たな世界が開ける。寿命がいくつあっても足りないこの職に、三國はやりがいを通り越して執着を覚えている自分に気付いていた。 「どこか気になる物件がありますか?」  先程遮った客の思考を手繰り寄せる為、三國は言葉を一つ投げる。すると突如として女の目に火が灯り、客は本来の甲高さを思い出したかのように流暢な声で語り出した。  客の名前は村田美咲、二十三歳。高校卒業後、短期大学に入学し、主に英語に特化した授業と簡易的な教職課程を履修。その後は子供を教える道を志すが、就職難に気力を削がれ、結局食品会社の小さな支店で事務兼電話での営業職へ就く。入社直後のよくある気分の低迷を乗り切るが、その後気心知れた同期一人とすぐ上の世代の先輩が辞職。残ったのは村田ともう一人の別の同期社員だったが、堅固なお局様達が目を付け、その頃から村田は他人との扱いの差を感じるようになる。同期の女は頭があまり良くなかったが、可愛がられる術を知っているようで、ミスをするのも愛嬌の内とされていた。対して村田は些細な失敗でもかなりの叱責を受けるようになり、昼食の際は弁当を馬鹿にされるなど精神的な苦痛を味わっていた。その時に同期の女が食べていた物は、コンビニエンスストアで百八円の額で売られていたクリームパンである。それに比べれば随分と整った食事をしている筈なのに、お局様達は村田を評価することは無かった。食べ物にまで口を出されるようになり、村田は昼食を一人で食べるようになる。それがまた不興を買い、付き合いが悪い、暗い、変だと陰口を言われるようになった。村田は時折雑巾を絞った水を使って茶を淹れていたので、彼女の茶は不味いと評判だった。村田は自分が同じようにされたことがあると確信していたので、不味い茶を淹れることに罪悪感を感じたりはしなかった。村田はそうすることで、仕事のやり方を否定してくる人間に仕返しをし、可愛い振りをする同期の女に憎しみを募らせていった。だが村田とて、陰湿なばかりではない。きちんと前を向いて、どうして自分ばかりが損な目を見るのかをじっくりと考えていた。村田は同期と自分を比較して思う。自分は可愛げが無いのだろう、自分は悪目立ちしやすいのだろう。同じようにやっても批難される人間は必ず出てくる。それは集団だから仕方がないのだ。同期と自分は見た目も違えば声色も違う。所作も字体も人相も何もかもが違う。けれども同じように命のある人間なのに、差別され、自分ばかりが批難される。例えばあと一人同期が残っていれば、きっと自分と同じような目に遭っていたので、自分は心細さに負けず救われていただろう。あの子ばかりが特別なのだ。あの子だけが良くて他は駄目なのだ。他というのは今自分しかいないので、辛い目に遭っているだけなのだ。あの子と自分を比べてしまうと、自分はどうしても見劣りする。お菓子を 買っていっても駄目、おべんちゃらを言っても駄目。どうにか好かれようとしても駄目。何をしても駄目。それは自分にはわからない何かがあの子の中にあって、自分では知り得ない好みがお局様達の中にあるということなのだ。どうやったら好かれるか理解ができない。自分にできることは何もない。どうしたら良いかわからない。ただこんな毎日が嫌でたまらない、だから自分は引っ越すのだ。  村田は語り終えると、ほうじ茶を一口飲んだ。そしてぎらぎらした目で書類を刺しながら、ここに引っ越したいのだと言った。 「これはその同期の方ですか?」 「そうです、この人の見ている世界が知りたいんです」  どんな気持ちで私を見ているのか、どんな気持ちで悠々と毎日楽しく過ごしているのか。さぞかし快適なことだろうと彼女は言った。なんだ、元気じゃないか。飛び出しかけた言葉を飲み込んで、三國は一つ咳払いをした。 「一応申し上げますが。その人うちの物件じゃないんで、調査とか審査とか色々ありますよ」 「待てます。私は彼女の見る世界以外に魅力を感じませんから」  私はそこでしか生きられないと思うんです。そう続けた女に少し思う所があったのだが、三國はどれもこれも口にせず、この人がそう思うのならそうなのだろうと納得することにした。  村田自身の必要書類と、同期の女の調査依頼書を受け取りながら、三國はぼんやりと思う。 「村田さんは、その人のことが好きですか?それともお嫌いですか?」  書類を書いている間、村田の瞳はだんだんとまた気力を失っていったのだが、その解答にどう応えるかだけを三國はじっと見ていた。彼女はすっかりまたか細い声に戻っていて、嫌いです、いなくなって欲しいですと自信無さそうに答えて言った。  たまたま風邪をひいて数日寝込むことがあったのだが、その間に査定が済んで物件を引き渡してしまったと聞いて三國は少しだけ落胆した。随分お急ぎのようだったからと言う二見が、恐らく彼女に物件を渡したのだろう。大層喜んでいたと伝え聞く様子を想像して、三國はぽつりと零した。 「仕事のできないぶりっ子が二人もいたら、苛々しませんかね」  私なら怒るし嫌いになるわと二見は言った。三國は手元に残った調査書類を見て、依頼人達のその後を想像した。  村田美咲様よりご依頼の、調査対象物件『同僚、今井ゆかり』。三人兄弟の末っ子として育ち、幼少期から自分への金銭面や手間の配当が不当であると親への疑問を持つ。学業よりも部活動に打ち込み、資格取得を志して村田様と同じく短期大学部へ進学。いくつかの簡単な資格を取るが、就職活動には活かせず、結果現在の会社へと就職する。仕事の覚えが悪いため気を揉むことが多く、同僚の仕事ぶりに常に威圧感を感じる。近頃は昼食や休憩の際に配る菓子代が気に掛かり、面倒を感じている。同期の村田は自分より仕事ができると思っている為、羨む心が非常に強い。自分の容姿について実績に伴わない自信を持っており、やや少女趣味。現在両親、兄弟ともに疎遠。一人暮らしの為、警戒心と共に被害妄想が増えている。 「村田さん、今頃楽しんでますかね」 「さあ。引っ越すと、それまでの自分の気苦労が他人事みたいに思えるから、また苦労するんじゃないかしら」 「すぐ仕事辞めちゃいそうですよね」 「そっちの方が良いんじゃない?」  二見の淹れた美味しい珈琲を啜りながら、三國は書類をそろえて綴じた。何はともあれ依頼人の要望は叶えたことだし、こうして新しい物件も手に入ったのだ。勿論報酬もそれなりに旨いものを頂いた。村田美咲の世界観である。仕事の覚えが良い人間の見る世界は売れ行きが良い。現代のニーズに合っているのだ。  三國は自分の店が潤うのを実感して、にんまりと笑った。良い顔をするようになったと褒める女の声は、澄んでいて嘘を一つも含んではいなかった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加