売掛

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売掛

 昔々のそのまた昔、何度も前の明治の時代。  ある日、風呂敷包みを背負った男が、どこからともなく狭川の街に流れ着いた。男は三國一成といった。家財どころか持ち物もほとんど無いくせに、身なりが小奇麗に整った妙な男だった。男は数日の間、街中を行ったり来たりしていたのだが、ある時突然、草ぼうぼうの空き地の前で立ち止まって「ここが良いぞ」と大きな声で言った。すると不思議なことに、そこら一帯はあっという間に真っ白な雲に包まれて、どう目を凝らしても、なんにも見えなくなってしまった。  狭川の人々は、あれは怪しいぞとか、悪巧みの気配がするぞと言って集まった。そうして、我こそは奴の悪事を暴いてやるのだと勇んでそこに並ぶのだが、幼子から邏卒に至るまで、結局誰一人として男が何をしているのか見ることはできなかった。  雲の中からとんかんと音がして、幾人もの人がうろついている気配はするのだが、寝ずの番をしていても見える出入りは一つも無い。雲から出る者も、入って行く者も、人っ子一人いない。痺れを切らしたお役人が、怒鳴り込んでやれば良いのだと言って雲の中に入ってみたのだが、相変わらずなんにも見えない内に、どうしてかすぐに回れ右をして出てきてしまった。  そうしてこれはどうしようもないなあということになって、場所も場所でいらぬ空き地だったので、もうしばらくは男の好きにさせようということになった。きっとその内出てくるだろう。出てきてから皆でとっちめてやれば良いのだ。彼らは口々にそう言った。  人々は待ったのだが、来る日も来る日もとんかんと音が鳴りやまない。男は一向に出てこず、何年もそうしている内に、皆次第に男のことなどどうでも良くなってしまった。そのうちに時代が進み、そこが空き地だったことを知る者もいなくなってしまって、気付けば街は整備され、周りに立派な家が立ち並ぶようになっていた。  するとある日、音がぱったり鳴りやんで、代わりに見慣れない美しい女が通りに一人で立っているのが見えた。狭川の街の人々は、さてどこから迷い込んだのだろうと思った。お嬢さん。一人が声を掛けると、女はにっこりと笑って鈴の鳴るような声で言った。やっとお店ができたんです。見ると雲はさっぱりと無くなっていて、周りに負けず劣らずの、立派な店がひとつ建っていた。  けれども人々は、誰一人としてそこに掛かった大きな看板を読むことができなかった。ここは何屋なんだいと訊ねた者がいたのだが、女があまりにも驚いた顔をするものだから、だんだんと読めないことが恥ずかしいように思えてきて、後には誰も訊ねる者がいなくなってしまった。そうして三國の家は誰にも咎められることなく、狭川の土地での商売を、その先もずっと続けていけることになった。  今でもこの街に伝わっている狭川御殿のおはなしは、その背景に当時の識字率や、異国の人々に対する反応が見て取れる、貴重な歴史的資料です。この話に出てくる雲というのは、何が起こっているのかわからなかったとか、煙に巻かれてしまったといった比喩表現であると言われています。この狭川の街には、実はここが狭川御殿だったのではないかという場所が残っていますが、それは丁度明治時代にこの辺りで栄えた三國の商家と昔話がいつの間にか混ざり合ってしまったもので、そういった面でも時代の流れを感じることができるものだと言えます。現在はお店を畳んでいらっしゃいますが、実は私も一度だけ、三國一成の子孫の方にお会いしたことがあるんですよ。  市内の観光文化センターを兼ねた小さな博物館で、学芸員がにこやかに話している。観光客に混じって紙コップの無料珈琲サービスに舌鼓を打っていた三國と四ツ谷は、ふむふむとそれらしく頷いてから小声で言葉を交わす。 「あれってうちの話ですよね。あのお姉さんが訪ねた三國一成の子孫って誰ですか?」 「僕だよ」 「四ツ谷さんって初代三國の直系?」 「嘘だけど」 「なんだ。あんた、市の職員騙したんですか」  えげつない嘘つくなあ、そんなの嘘だって誰にもわからないじゃないですか。薄い珈琲を啜って渋い顔をした三國は、学芸員の視線を窺う。幸いにも彼女は四ツ谷に気付かず、観光客達を伴って次のフロアに移動するようだった。それを見送りながら、二人はその場に残って、昔話をまとめたパネルをぼんやりと眺める。挿絵は丁度、唐草模様の風呂敷を担いだ男が雲の中に消える場面だった。 「子孫じゃないけど、彼は僕らの友達だよ。ずっと昔の話だから、僕も五十嵐もまだまだ若かった」  遠くを見透かしている四ツ谷が、顔に似合った老人の哀愁を滲ませる。瞳はいくつもの景色を映していた。そのうちにふと、彼は三國の方を向いて「君もね」と言った。  それが『若い』に掛かっているのか、それとも『友達』に掛かっているのか、また別の何かなのかわからなかったので、第二百五十三代目の三國は、黙って珈琲を飲み続けるしかなかった。  コップに口を付けている間は、無口でいても良い。  観光客の去った後の博物館は、心地の良い沈黙に包まれていた。
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