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港湾食堂
波が無数の巨大な腕となって水面を打ち付け、海は荒れ狂っていた。
鉛のような黒い雲が空を覆い、雨と雪、そして雷を同時に降らす。
風は、轟音を巻き上げ海を、空を荒ぶらせる。
それはまさに地獄の蓋が開いたような絶望的な光景だった。
その絵図の中廃墟となった建物が波に削られてカッターで削られた鉛筆のように細くなった岩の上に乗っている。
それはかつて港湾食堂と呼ばれた建物だった。
多くの海で働く人間が朝と昼と夜と訪れて賑やかに喚き散らしながら手作りの料理に舌鼓を打っていた。
しかし、今、ポーさんの目に映るその港湾食堂にはそんなことがあったことすら思い起こさせないほどに荒れ朽ちていた。
ポーさんの姿もまた先程までとは違っていた。
大きく波打った銀色の長い髪、透き通るような青い瞳、剥き出しになった上半身は青紫の鱗に覆われていた。そして下半身は巨大な竜の尾ように太く、大きく蠢き、荒れ狂う空へと浮かび上がっていた。
「ポセイドン」
嵐の音に乗って低い声が響き渡る。
荒れる海面から巨大な氷山のようなものが現れる。
それに続いて海蛇のような銀色の触手が海を突き破って現れる。
それは、巨大な烏賊であった。
巨大な剣のような頭の下から燃え上がるような赤い目が溶岩ように煮えたぎらせ、ポーさん、ポセイドンを睨みつける。
「クラーケンか」
ポセイドンは、能面のように表情なく荒海から現れたクラーケンを見下ろす。
「貴様!また女将の身体を弄ったな!」
クラーケンの足がポセイドンに襲い掛かる。
ポセイドンは、何も抵抗せぬままにその巨大な身体を縛り付けられる。
「貴様は、彼女をどうするつもりだ!」
クラーケンの足がポセイドンの身体を締め上げる。
しかし、ポセイドンは、苦鳴の1つもあげない。
「どうもしない」
ポセイドンは、無表情に、無感情に淡々と言葉に出す。
「彼女が望むことをするだけだ。彼女は、あの場にいることを望んでいる。彼女は、夫が帰ってくるのを待ちたいと願っている。私はそれを叶えてやりたい。それだけだ」
「帰ってこないと分かってるのに?」
ポセイドンの遥か頭上より嘲笑が聞こえる。
荒れ狂う風を斬りながら鉛のような黒い雲に包まれた空から舞い降りてきたのは翡翠色の髪をと同色の瞳を持ち、両腕の代わりに翡翠色の大きな翼を生やした美しき女の姿をしたものだった。
「セイレーンか」
セイレーンは、美しい顔をポセイドンの目に近づける。そして針のように尖った舌を出してその目に触れる。
「彼女を解放しろ。私たちの罪に彼女を巻き込むな。これ以上の地獄を見せるな」
セイレーンの舌がポセイドンの瞳を突き刺し、中に入り込む。
しかし、ポセイドンは、表情の1つも感じない。
「・・・解放されたいのはお前だろう。セイレーン」
セイレーンの表情が変わる。
翡翠色の瞳が震え、表情叫び出しそうなほどに青ざめる。
「彼女を見ていると自分の罪を思い出してしまうから辛いのだろう?私に言われるがままにその甘美な歌声で人間を狂わせ、殺しあわせたことを」
セイレーンは、憎悪を翡翠色の瞳に込めて睨む。
「そうだ。我々は償わなければならない」
海面が大きく破裂する。
現れたのはクラーケンよりも巨大な白い山、いや、大陸と行っても過言ではないモノ。
それは白い鯨であった。
「モビーディック」
ポセイドンは、小さく呟く。
セイレーンに潰された目はいつの間にか治っていた。
「我々は、大きな罪を犯した。貴様から命令される大義名分のままに人間の世界を破壊した。その結果、この世界で1番美しい者が大切にしていたモノを奪ってしまった」
モビーディックの後ろから無数の気配が怒気と共に溢れ出る。
それは港湾食堂に来ているお客さんたちの気配。
姿は見えない。
しかし、それは人であり得ない姿をした異形の者達。
「俺も大きな罪を犯した。貴様に言われるがままに人間の文明を飲み込んだ。その結果、俺は彼女の世界を消し去った。これ以上の苦しみはないはずなのに我々はさらに彼女を苦しめている。我々の身勝手さに」
「彼女が望んでることだ」
「叶いもしないのに何が望みだ!」
モビーディックは、顎を開く。
それはそれはあまりにあまりに巨大な地獄へと通ずる奈落の穴のようだ。
「俺が終わらせる。彼女を苦しみから解き放つ!」
モビーディックは、大きな顎を開いたまま海中から飛び上がり、朽ちた港湾食堂を飲み込もうとした。
しかし・・・。
「クラーケン!」
モビーディックは、怒りの声を上げる。
朽ちた港湾食堂の前にクラーケンが現れ、その巨体を使ってモビーディックの顎を塞ぎ、全ての足をモビーディックの身体に絡ませて動きを封じた。
「貴様、いい加減に・・・」
「俺もお前と同じ気持ちだ!」
クラーケンは、叫ぶ。
「俺だって彼女を楽にしてやりたい。苦しみから解放してやりたい。しかし、彼女は、それを望まんでいない。彼女の望みは待つことだ。なら俺はそんな彼女を守らなければならない。彼女の1番大事なモノを奪ったのはオレだから!」
慟哭が荒れた世界に響き渡る。
クラーケンの足から解放されたポセイドンが海面に近づき手を翳す。
緋色の球体が現れてポセイドンの手に収まる。
緋色の球体の中にあるのは人間の骨だった。
「我々は、彼女から全てを奪った。この世で最も汚れのない魂を持つ者の全てを。そしてそれを奪うように命じたのはこの私・・・恨まれるべきはこの私だ」
ポセイドンを見る無数の目。
その目に宿るは怒りと憎しみ、そして嫌悪。
「今の彼女を主人に会わせたらその先にあるのは絶望の死・・・それだけだ。だからこそ私たちは待たなければならない。彼女の思いが変わる日を。いつか主人のことを忘れ、安寧の死を求めるその日を」
ポセイドンは、そっと海の中に緋色の玉を戻す。
緋色の中にいる骸骨の目が一瞬、港湾食堂を見たような気がした。
「そんな日が本当に来ると思うのか・・・?」
クラーケンが問う。
セイレーンが、モビーディックが、港湾食堂の客である異形の者たちがポセイドンに怒りの目を向ける。
ポセイドンは、小さく呟く。
「わからん」
ポセイドンは、憐憫のこもった目で朽ちた港湾食堂を見続けた。
港湾食堂は、今日も大賑わい!
大きな窓ガラスからはたくさんの日光が差し込み、穏やかな海とその上をゆったりと進む様々な船、そして港で騒がしくも堅実に働く人々の姿が見える。
女将さんは、そんな光景を微笑ましく見ながら忙しく手を動かす。
「オレ、トンカツ定食!」
「クリームシチュー!」
「ナポリタン!」
正面口から入ってくる沢山のお客さんが食券をカウンターの上に置いていく。
「女将、これはどこに置けばいい?」
沢山の荷物を両手に抱えたクラさんが訊いてくる。
「んーそこ置いといて」
「おっかみー来たよー!」
セイちゃんは、今日も太陽のような笑顔を女将に振りまく。
「セイちゃんいらっしゃい!」
「女将、今度はいつ髪を切ろうか?」
ディッくんが右手の人差し指と中指を動かしなが言う。
「しばらくはいいわ。パンケーキ焼くから待ってて」
「女将」
ポーさんが食券をカウンターの上に置く。
痛い眼差しがポーさんの背を打つ。
そんなポーさんを女将は、笑顔で迎える。
「ポーさんいらっしゃい。席に着いてお待ちください」
暖かい日差しと穏やかな波の音が港湾食堂の中を包み込む。
港湾食堂は、今日も賑やかに営業中
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