まーるいパンケーキ

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まーるいパンケーキ

 港湾食堂は、朝もとても賑やかだ。  水平線から伸びてくる朝焼けが食堂の中に入ってくる頃に沢山のお客さんがやってくる。  みんな女将特製の朝飯定食目当てだ。  その日に上がった旬の魚の煮付けか焼き物、甘くトロトロの目玉焼き、季節の野菜の味噌汁に漬物、そして炊き立てのご飯・・・これを目当てに港での仕事がなくても来るお客さんがいるくらいだ。  カウンターの上には積み上がり、小山になるほどの食券が乗っている。 「はいっ出来ましたよー!」  女将の日差しに照らされた海のような明るい声が食堂の中を木霊する。  お客さん達は、食券買った順番通りに乱れることも喧嘩することもなく、朝飯定食を持っていく。  朝の港湾食堂は、朝飯定食を食べる為にある、と言っても過言ではない。  しかし、どんな出来事にも例外は存在する。 「女将!」  耳障りの良い管楽器のような低い声が厨房を走る。  手を動かしながら女将が顔を動かすとカウンターに男性が座っていた。  金髪を肩まで伸ばし、顎髭を生やした港で働く男達にはまずいない美丈夫だ。カウンターで下半身は見えないものの革のジャケットを羽織った肩の張り方やその隙間から覗く胸板を見るだけでもその逞しさが窺える。  男性は、女性なら誰もが振り返るような輝かしい笑みを浮かべて女将に手を振る。  女将もにこやかに笑みを浮かべて男性に手を振る。 「おはようディッくん。早いわね」  女将は、明るい声で挨拶すると目線を料理に戻す。 「そうか、もう1ヶ月経ったのね」  まな板に寝かせた今朝上がったばかりの魚の腹に包丁を当てる。ゆっくりと力強く中に差し込む。 「そうだよ。今日が予約日だよ」  そう言って右手の人差し指と中指をくっ付けて、離すを3度繰り返す。 「まだ、お客さん達のご飯が終わらないの」 「大丈夫大丈夫!俺もゆっくり食べたいからさ」 「メニューはいつもの?」 「うん」  ディッくんは、食券をカウンターの上に置く。 「まんまるお月様のようなパンケーキとコンソメスープ。サラダを忘れずに」 「承りました」  女将は、にこやかに答える。  今日も港湾食堂は、賑やかだ。  日差しの色が変わり、高く昇る頃にはお客さん達は食べ終わり、港の仕事へと戻る。その間だけは食堂からは人がいなくなり、束の間の静けさが訪れる。  女将は、窓から差し込む温かい日差しを浴び、穏やかな海の音を聞きながら大きく伸びをする。 「今日もいい天気」  そんな女将の側でディッくんは、嬉しそうにパンケーキを眺めていた。 「ムーン、ムーン、フルムーン、丸くて綺麗なフルムーン」  当然だがセイちゃんに比べればあまりにも拙い自作の歌を歌いながらディッくんはパンケーキにフォークを突き刺さす。 「本当、ディッくんは、パンケーキが好きなのね?」  女将は、小さく子を見るように目を細めて笑う。 「そりゃそうさ。なんせ満月なんて長い間見てないからね。女将のパンケーキで思いを馳せるのさ」  そう言ってメープルシロップたっぷりつけたパンケーキを口に運ぶ。  優しくて柔らかな甘さが口全体に広がってディッくんの表情が溶ける。  女将もその様子を微笑ましく見る。 「これ食べ終えたらやるから待っててね」 「ごゆっくりどうぞ」  ディッくんは、女将からの言葉通りにゆっくりとパンケーキを咀嚼し、コンソメスープを啜り、サラダを放り込む。  穏やかで眠気を誘う朝が港湾食堂を優しく包んでいた。  パンケーキを全て平らげるとディッくんは、いそいそと準備を始める。  大きな水色のシートを床に敷き、その上に店の椅子を置き、女将に座ってもらう。女将には割烹着の上からケープをつけてもらう。小柄な女将が羽織ると幼稚園のお遊戯での衣装のようだ。  女将から借りた食堂のカートに商売道具である鋏、バリカン、スプレーなどを置いていく。  ディッくんは、美容師なのだ。 「いつも朝早くごめんね」  女将は、申し訳なさそうに謝る。 「いやいや、忙しいんだからしょうがないよ。それに・・」  ディッくんは、三角巾に包まれた女将の頭を触る。 「女将の髪は、俺にしかいじれないからね」  ディッくんは、三角巾の結び目に触れる。 「解くよ」 「はい」  ディッくんが三角巾の結び目を解き、三角巾を外す。    港湾食堂が漆黒に包まれる。  窓から差し込む光が消え、甘い花の香りと波のような擦り合う音が聞こえる。足元が小動物のような温かいものに包まれ、気持ちいい。  ディッくんは、小さく息を吐く。 「また、伸びたね」 「ごめんなさい」  女将は、恥ずかしそうに俯く。  港湾食堂を漆黒に覆ったもの、それは三角巾の下に隠れた女将の髪だった。  ディッくんは、ズッシリと重みのある髪を持ち上げる。 「肩凝らない?」 「多少は・・・」 「毎回、確認するけどすいて軽くするだけでいいんだよね?切らないんだよね」 「お願いします」  ディッくんは、小さく生きを吐きながらも女将の言う通りに髪をハサミで梳いていく。 「いい髪質だね。絹みたいだ」  鼻歌を歌いながらディッくんは、髪を丁寧にすいていく。 「そお?ディッくんが来た時くらいしか手入れしないから分からないや」 「もったいないなあ」  ディッくんは、丁寧に丁寧に苺の皮を包丁で剥くようにすいていく。  すかれた髪がざらめ雪のように落ちていくが地面を覆う髪と同化してどこに落ちたのか分からない。 「髪は・・・ずっと伸ばしていくの」 「うんっ主人が帰ってくるまで」 「願掛けってやつ・・?」 「それもあるけど・・・」 「あるけど?」   ディッくんが聞き返すと女将は、頬を赤らめて指をモジモジ動かす。 「主人が・・・私の長い髪を好きって言ってくれたから・・・」 「・・・ご馳走様」  ディッくんは、鋏にまとわりついた毛をふるい落とす。  それから無言でディッくんは、女将の髪をすき、女将は、髪が軽くなっていくのと久々の手入れで気持ちが良くなり、ウトウトとしだす。 「ねえ、女将」 「なあに?」 「女将は、ずっとご主人を待ち続けるの?」 「そうよ」 「辛くないの?」 「辛い?」  女将は、眠い目を瞬かせる。 「だっていつ帰ってくるか分からないんだよ。ひょっとしたら帰ってこないかもしれない。それなのにずっと待ち続けるの?」 「・・・待つわ」  女将は、穏やかに、しかし何ものにも折れない強い言葉ではっきりと言った。 「私は、待つ。待つって決めたの。主人が帰ってくるその日まで。何があっても待つって・・!」 「女将・・・」  ディッくんの手が止める。鋏の刃が小さく音を立てる。  女将は、振り返らずにディッくんの手にそっと触れる。 「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だから」  そう言ってにっこりと微笑んだ。 「・・・分かった」  ディッくんもにっこりと微笑んだ。  女将には見えなかった。  鋏を待つ手とは逆の手から、熱された石のように赤く染まった左手から鮮血がこぼれ落ちて自らの髪に落ちていることに・・・。  女将は、眠ってしまった。  無理もない。  もうずっと身体も心も休まることなく、ずっと働き続け、待ち続けているのだ。  どちらももう限界だ。  とっくのとうに限界なのだ。  これ以上は、とても・・・。  ディッくんは、女将の首筋の毛を掻き分ける。  分厚く、重い髪の隙間から現れたのは信じられないほどに細く、白い首筋・・・。  ディッくんは、そっと首筋を触る。  冷たい・・・。  血なんて通ってないのではないかと思わせるほどに冷たい。  ディッくんは、強く目を閉じる。  うっすらと涙が滲み出る。 「女将・・・」  ディッくんは、鋏の刃を重ねる。  そしてゆっくりと持ち上げる。 「もう・・・休もう」  ディッくんは、涙を流しながら笑う。 「お休み・・・女将!」  ディッくんは、首筋に向け鋏を振り下ろした。    鋏の先端が女将の白い首筋に吸い込まれる・・・と思われたその時である。  鋏の先端が女将の首筋に触れる直前で止まる。  先端が小さく震える。  鋏を持つディッくんの右手を大きな浅黒い手が潰さんとばかりに握りしめる。  クラさんが怒りのこもった形相でディッくんを睨みつける。  ディッくんは、驚愕し、目を見開く。 「クラさん・・・なんで⁉︎」 「大きな声を出すな」  クラさんの背後から声が聞こえた。  とても不愉快な、少なくともディッくんにとってはとても不愉快な声が。  黒と白の色入り混じった髭を生やした初老の男・・ポーさんだ。 「久々に女将が寝てるのだ。お前の汚らしい声で起こすでない」 「てめっ!」  ディッくんは、視線だけで射殺せるのではないかと思わせる眼光をポーさんに向ける。  そしてその眼光をクラさんにも向ける。 「クラさん!なんでこんな奴と!」  クラさんは、何も答えずディッくんを握る手の力をさらに強める。  ディッくんの腕から有り得ない音が鳴り響き、鋏が落ちる。  クラさんは、そのまま投げ捨てるようにディッくんを床に叩きつけた。  背中から床に叩きつけられたディッくんは小さな呻き声を上げる。  女将の髪がなかったら背骨が割れていたことだろう。 「女将に手を出すな」  クラさんは、低い声を上げ、暗い目をディッくんに向ける。 「お前の気持ちは分かる。しかし、女将が選ばない以上、俺は何があろうと女将を守り続ける。ただ、それだけだ」 「クラさん・・・」  ディッくんは、唇が切れんばかりに噛み締める。  ポーさんは、女将に近寄ると黒い髪を優しく撫でる。 「綺麗に整えてくれたな」 「触るな!」  ディッくんが獣のように唸る。  しかし、ポーさんは、その言葉など聞こえていないかのように両手でシャボン玉に触れるかのように女将の頭を触る。  刹那。  食堂中を覆っていた女将の髪が吸い込まれるように渦を巻きながら女将の頭へと巻きついていく。  食堂の中を日差しが注ぎ、波の音が流れる。  そして全ての髪が纏まると三角巾が海を泳ぐ蛸のように宙を舞い、女将の頭に巻き付き、皆の知るいつもの女将へとなった。 「ヘアカットお疲れ様」  ポーさんは、表情も変えずにそう告げると正面口へと向かう。  その背中に向かってディッくんは叫ぶ。 「お前は、女将をどうしたいんだ!」  ポーさんは、足を止め、振り返る。  そして顎髭の生えた口に人差し指を当てる。 「大きな声を出すな」  そう言って正面口から出ていった。  ディッくんは、クラさんに折られた手を床に叩きつけ、嗚咽を漏らす。  クラさんは、目を細めてディッくんを見る。  その肩に優しく手を置く。 「後は頼む」  そう短く告げるとクラさんも正面口から出ていった。  ディッくんの慟哭だけが食堂の中に響き渡った。 「ディッくん本当に大丈夫?」  厨房に戻った女将が心配そうに見る。 「大丈夫。俺の不注意だから」  ディッくんは、はははっと小さく笑う。  右腕には大きな湿布を貼り、氷嚢で冷やしていた。 「ごめんね。私寝ちゃってディッくんがそんなに盛大にこけたなんて全然気づかなかったよ」  申し訳なさそうに小さい身体をさらに小さくする。 「いや、逆に寝ててもらって幸い。恥ずかしいところ見られないで良かった」 「これ、お詫びといってはなんだけど」  そう言ってディッくんの前にプレートを置く。  プレートの上に置かれているのはいつもより小さなパンケーキ。違うのは表面にバターが乗ってないことと、どら焼きのように国が縫い付けられるように閉じていることだ。 「中に少し固めたメープルとバターを挟んでるの。これなら手で持って食べれるでしょ?」  女将は、愛らしく笑う。  ディッくんは、小さなパンケーキサンドを見つめ、左手で手に取るとゆっくりと口に運び、咀嚼する。  生地とメープルの甘味とバターの濃厚な旨味が口中に広がる。 「・・・美味い」 「良かった!」  女将は、満面の笑みを浮かべる。  パンケーキの満月にも勝る大きな明るい笑みを。  ディッくんは、顔を俯かせる。  女将に見えないように小さく泣く。 「ムーン、ムーン、フルムーン、丸くて綺麗なフルムーン」  ディッくんは、涙がを飲み込みながら歌う。  最高の満月のような笑顔を向けられながら歌う。  そして願う。  この満月がいつまでも輝いてくれることを。  港湾食堂は、今日賑やかに営業中。
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