羊肉のステーキとワイン

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羊肉のステーキとワイン

 港湾食堂は、今日も大盛況!  沢山の人々がやってきて大賑わい!  大きな窓からは港で働く人々の喧騒と活気のある声と共に穏やかな波の音が柔らかな日差しと共に食堂の中に入ってきて、じわりと染み込んでいく。  昼時になると食券を買い求めた人々が我先にと注文していく。 「オレ、カツカレー!」 「鮪の刺身定食」 「牛丼!」  今日も食堂の中はてんてこまい!  女将は、「はーいっ」と元気な返事を返して色々と包丁を動かし、フライパンを振るった。  しかし、その注文の嵐が突然に止む。  お客さん達の目線が正面口に集中する。  ポーさんがそこに立っていた。  ポーさんは、白と黒の混じった顎髭を摩りながら食券を買い求めるとゆっくりとした足取りでカウンターへと向かう。  そのポーさんに対し、お客さん達は一様に同じ目を向ける。  怒りと嫌悪。そして憎しみ。  それは港湾食堂ではいつもの光景だった。    お客さん達のそんな負の視線を受けても尚ポーさんは、平然と歩き、カウンターに座ると女将に小さく手を上げる。 「こんにちはポーさん」  女将は、笑顔でポーさんを歓迎する。 「ああっこんにちは女将」  ポーさんは、購入した食券を置く。 「羊肉のステーキとワインを」 「焼き方は?」 「レアで」 「ワインの色は?」 「赤」  注文を承ると女将は、大きな冷蔵庫から肉の塊を取り出す。彫刻刀で掘られたような雪のようなサシの入ったお肉だ。  女将は、牛刀包丁を取り出すとゆっくりと刃を食い込ませ、前に後ろにと最小限の動きで刃を入れていく。  そして綺麗な断面を見せびらかすように羊肉は切り落とされ、まな板の上に置かれる。  女将は、肉の筋に沿って包丁で切れ目を入れ、塩と胡椒を振ると羊の母乳から作ったバターを塗ったフライパンの上にそのまま落とした。  脂の焼ける音とともに炎が噴き上がる。  女将は、恐ることなくフライパンの上に蓋をする。  そして肉が焼けるまでの間に床下の貯蔵庫の蓋を開けてワインのボトルを取り出す。器用にコルクを開け、グラスに注ぐとそれをポーさんの前に置く。 「もう少し待っててね」  女将は、小さく微笑んで厨房へと戻る。  ポーさんは、何も言わずにワインに口を付ける。  女将は、肉が焼けるまで間に他の注文の品をテキパキと作り、お客さん達を見る。  お客さん達は和かに女将から食事を受け取り、ポーさんを睨みつけながら席へと戻っていく。  ポーさんは、静かにワインを飲んだ。  焼けたフライパンが石焼きの皿の上に置かれる。  石焼きの皿からは気持ちよい肉の焼ける音が響く。 「おまちどうさま」  女将は、ポーさんの前に羊肉のステーキを置く。  表面だけ見るとウェルダンと勘違いしそうな程に焼けているが側面を見ると生々しさを残した柔らかさが残っていることが分かる。  ポーさんは、フォークとナイフで丁寧に肉を切り分ける。  赤みを残した綺麗な断面が雲に隠れた月のように見え隠れする。  ポーさんは、羊肉をゆっくりと口に運び、咀嚼し、そしてワインを一口飲む。 「・・・美味い」  ポーさんは、小さな声で呟く。  女将は、にっこりと微笑んで厨房へと戻る。  ポーさんは、怒りと憎しみの視線を浴びながらも淡々と羊肉のステーキを食べ、ワインを飲む。グラスが空になる頃に女将がワインを注ぎにくるがそれ以上の会話はしない。  それもまたいつもの光景だ。  しかし、今日はいつもとは少し違っていた。 「女将」  羊肉のステーキを食べ終えたポーさんが女将に声を掛ける。女将に話しかけること自体はそれ程珍しい事ではない。違うのは次に発する言葉だ。 「準備が整った。店仕舞い後に治療したいのだがいかがか?」  ポーさんの言葉にお客さん達が騒めく。  女将は、嬉しそうに表情を輝かせる。 「ありがとうございます。お願いします」 「では夜にまた来る」  ポーさんは、立ち上がると正面口に向かって歩き出す。 「お願いします」  女将は、丁寧に頭を下げる。  ポーさんの背中に怒りと憎しみ、嫌悪の視線が怨嗟となって投げつけられる。  しかし、ポーさんは気にした様子も何もなく正面口から出ていった。  再び喧騒が食堂の中を走り回った。  青い月明かりが大きな窓から差し込み、港湾食堂の中を冷たく照らす。  昼の喧騒などどこに去ってしまったのか、静寂だけが食堂を外套のように包み込む。  女将は、食堂の椅子に腰を下ろしていた。  その前に立つのは・・・ポーさんだ。  ポーさんは、月の明かりと同じ青い手術着を纏い、手袋とマスクをしている。 「少し沁みるぞ」  ポーさんは、優しく女将の顔を触ると目に触れる。下瞼をゆっくりと下ろし、目薬を差す。 「もう片方もだ」  そう言ってもう片方の下瞼を下ろして目薬を差す。  焼けるような痛みが走るが耐えられないようなものではない。 「目が開けられるか?」 「はい」  女将は、ゆっくり瞼を開ける。  ぽっかりと小さな暗い空間が2つ、そこにあった。 「何も見えないです」  女将は、不安そうに言う。 「薬が効いてるだけだ。心配ない」  ポーさんは、左手を上げる。  その手には透明で小さな2つの玉が握られていた。  そして右手には銀色の注射器が。  ポーさんは、注射器の針を玉の1つに近づけてゆっくりと差し込む。透明な玉の中に針が入っていくのが見える。  先端を中程で止めるとゆっくりとシリンダーを押し込む。  とろりっとした銀色の液体が針の先端から流れ落ち、玉の中を満たしていく。  液体が玉の中に隙間なく収まるのを確認するとそっと針を抜く。  銀色に染まった玉の表面に赤い筋が現れ、脈打ち始める。 それを確認するともう1つの透明な玉にも針をゆっくり差し込み、銀色の液体を流しこむ。  もう1つの玉にも銀色の液体が満ち、赤い筋が浮かんで脈打つのを確認すると銀色の注射器をテーブルの上に置く。 「目を開いたまま動かないで」  ポーさんは、そっと女将の頬に触れる。  女将の震えが手に伝わる。 「大丈夫。怖くないよ」  ポーさんは、銀色の玉を女将のぽっかりと空いた黒い穴の中に押し込む。  銀色の玉を押し込まれた目の周りから赤い液体が溢れ出る。 「痛くないかい?」 「・・・大丈夫です」 「もう終わるからね」  ポーさんは、優しく囁やくように言ってもう1つの穴に銀色の玉を押し込む。  目の周りから赤い液体が溢れる。  ポーさんは、流れる赤い液体を拭い、清潔な包帯で優しく女将の目を覆う。 「今日1日はこのままで。明日には見えるようになる」 「ありがとうポーさん」  女将は、口元に笑みを浮かべて立ち上がろうとする。  ポーさんは、女将の腰に手を回して支える。 「ベッドまで送ろう。今日はもう寝てしまうといい」 「そんな・・・悪いです」 「問題ない」  ポーさんは、そう言って女将を寝室のベッドまで連れて行って寝かせる。 「それではお休み」  そう言って寝室から出ようとすると女将が呼び止める。 「いつもらありがとね。ポーさん」 「礼を言われることはない。医師として当然のことをしてるだけだ」 「でも・・・ポーさんだけだもん。主人を待ってる私を何も言わずに見守ってくれるの・・・」 「・・・・」 「みんなが私のこと心配してくれてるのは分かってるの。みんながとっても優しいことも分かってるの。  でも、私は待ちたいの。きっと帰ってきてくれるって信じてるの・・だから!」  包帯を巻かれた女将の目から赤い涙が溢れ出る。 「私から待つことを取り上げないで!」  女将は、嗚咽する。  幼い少女のように大声で泣き続ける。  ポーさんは、女将の元に戻るとそっと頭を撫でる。 「大丈夫。誰も君から待つことを取り上げたりしない。これ以上、何も君から奪うことはしない。だから安心して眠りなさい」  ポーさんは、優しく優しく女将の髪を撫でた。  女将は、泣いた。  泣いて泣いて泣き続けて、そしていつの間にか眠ってしまった。 「お休み・・・女将」  ポーさんは、涙で赤く染まった頬を拭い、立ち上がると寝室から出る。  食堂の中は、青い月の光に包まれていた。  冷たく、どこか嘘っぽい青い月の光に。  そしてポーさんは、正面口から食堂を出た。
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