1.

1/1
34人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

1.

 踏みしめるたびに軋む木の階段を登り、小さな玄関ポーチの上に立つと、少し冷たい風が髪を撫でた。その風に誘われたように杏子は振り向いた。  どこまでも続く深い森は徐々に色づき始め、その間から降り注ぐ陽の光が白くまぶしい。  杏子は満足げに頷いた。そして受付センターで渡されたキーをポケットから取り出し、コテージの中に入った。スニーカーを脱ぎスリッパを履くと、どさりと荷物を置いて部屋の中を見回した。  二十畳ほどの部屋の中央にはテーブルと椅子が四脚。その向こう、部屋の正面には大きな窓があり、外はウッドデッキになっている。すぐ右にはキッチンとバスルームのドアが並んでいる。玄関先の階段とは違い、フローリングの床は良く磨かれていて埃一つない。  小さくてささやかなコテージだったが、杏子にとっては申し分ない環境だった。  部屋の左手には狭い階段があり、二階のベッドルームに続いている。  杏子はその横にある出窓に目を止めた。  台形の出窓で、奥行きは三十センチほど。正面の窓は格子状のはめ殺しで、両袖開きの構造だ。  目を引いたのはそこに飾られているガラスの花瓶だった。そこには一本の枝が挿してあり、いくつかの小さな赤い実がなっている。  杏子は鍵を渡してくれた高齢の男性の顔を思い出した。一通り説明を受ける中で、各コテージにある花瓶のことも話していた。殺風景な部屋なのでせめてもの彩にと、客が入る部屋に挿して回るのだそうだ。 (南天かしら)  杏子は指先で軽く触れてみた。  それから正面の大きな窓を開けてデッキに出た。遠くには北アルプスが荒々しくそびえており、その尾根は薄く雪をまとっている。  杏子は両腕を広げ大きく息を吸った。  もう何時間かすると山の向こうに陽が沈んでいく。そうすると空が徐々にオレンジ色に変わり、山の稜線は金色に輝きだす。頭上の空は青から紺にその色を変え、やがて夜が降りてくる。そのグラデーションの移り変わりは一刻として同じではない。 「さてと」  杏子は部屋に戻りテーブルの上でカバンを開けた。そして中からタオルに包まれた荷物を丁寧に取り上げると、そっとテーブルに置いた。杏子が愛用するティーポットだ。お気に入りのポットでお気に入りの紅茶を淹れる。それを飲みながら夕暮れの景色を楽しむ。それがこの旅の目的だった。誰にも邪魔されず、贅沢な時間を独り占めする。考えただけで胸が踊った。  ふと思い出して、杏子はカバンのサイドポケットから一枚の絵葉書を取り出した。タクシーに乗る前に立ち寄った駅中のショップで買ったものだ。 「よし」  大きくうなずくと杏子は椅子に腰をかけ、一緒に購入したペンを手にした。  晩秋に染まる山々、そこを旅する一人の女。一枚の絵葉書。 (ああ、なんて絵になる私)  杏子はこのシチュエーションを存分に噛みしめた。  それから三十分ほどかけて葉書を書き終えると静かにペンを置き、そして深い溜息をついた。 「虚しすぎる」  そう言って、実家の母親に宛てた葉書をしげしげと眺めた。 「……なぜ母親」  ここ数年、正月以外は実家に帰っていない。たまに来る母からのLINEに返信するくらいで、こちらから連絡することは滅多にない。我ながら親不孝な子供だと思う。  ただ言い訳もある。母親は実家に帰るたび、いい年をして彼氏もなく、むしろ一人でいることを楽しんでいる娘に対し、毎回心配と言う名のおせっかいを仕掛けてくる。ああ見えて古い人間なのだ。自分の親に向かって言いたくはないのだが、まあ、なんというか、鬱陶しい。この前なんて、いいアプリがあるわよ、などと言ってきた。最近は余計な知識まで仕入れてきて始末に負えない。 「まあいいか」  杏子はしばらく思案したあと、『一人、旅先にて』と最後に書き足した。  受付センターの前にポストがあった。あそこに出せばこの地の消印が押され、さらにそれっぽくなる。 (いっそ自分宛てに出したほうが記念になるかな?)  が、すぐに首を振った。 (そんなことしたら終わりだわ)  杏子は葉書を尻ポケットにねじ込むと部屋を出た。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!