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3.
手紙をポストに投函すると、鍵を渡してくれたあの老人が建物の中から出てきた。老人は杏子を見ると人懐っこい顔で近づいてきた。
「どうも。お手紙ですか?」
「ええ」と、今度は普通の笑顔で答えた。
老人は二度三度頷いた
「いいですね。メールは便利ですが、やはり自分で書いた文字には心が宿ります」
「そ、そうですね」(なにか宿したっけ?)
「よほど伝えたい想いがあったんですね」
「そ、そうですね」(そうだったかな?)
「ボーイフレンドにですか?」
「い、いえ」(ボーイフレンドって……ていうか、それアウトだろ)
「都会は楽しいですが、たまには自分だけの時間も必要です。そしてここは一人旅にはもってこいです」
「ほ、ほんとに」
「そうだ」老人は何かを思い出したように杏子を見た。「お時間があるようでしたらコーヒーでもいかがですか?」
杏子はドアの横に立てかけてある看板を見た。手書きのメニューがいくつか書かれている。そういえば受付カウンターと一緒にちょっとした喫茶スペースが併設されていた。
「あ、いえ、大丈夫です」(コーヒーはちょっとなあ)
杏子は老人に向けて手のひらを振った。
「そうおっしゃらずに。地元に焙煎工場がありましてね、そこから毎朝買ってくるんです。ちょうど淹れ立ててですよ」
そう言うとドアを開け、杏子を促した。
「は、はあ」(誘われたんだから、タダよね?)
「どうぞどうぞ」
「は、はあ」(キャッチじゃないわよね?)
杏子は建屋の中に吸い込まれた。
意外に盛り上がった老人との会話を終え、杏子はその場を後にした。
普段はコーヒーをほとんど飲まない杏子だったが、老人の淹れたものは確かに美味しかった。
もちろんタダ。
杏子は歩きながらスマホの時計を見た。なんだかんだと四十分は経っている。
(もういないわよね)
やがて東屋の手前に差し掛かると、念のため杏子は足音を忍ばせた。
小枝を踏まぬよう、石を蹴らぬよう静かに歩みを進め、恐る恐る首を伸ばした。
(げっ、まだいる)
杏子はその場で腕を組んだ。
(どうしよう)
引き返そうか。いや、それでまたあの老人に出会おうものなら、なんと気まずいことか。かと言って当てもなく歩き回るのは億劫だし。
そこで杏子は、はっと顔を上げた。
(ちょっと待て。なんで私が悩まなきゃいけなのよ)
杏子は腕をほどき、わざとらしく足音を立てながら歩き始めた。
(なんでもない風に通り過ぎればいいだけ)
腕を振り上げ、まるで運動会の入場のように行進した。前を向きながら、しかし眼球だけは力いっぱい東屋に向けた。
生涯最大級の横目だった。
だが東屋の正面にきた時、杏子は急に立ち止まった。そこには女一人だけがうつ向いて立っている。男二人の姿はない。
杏子はしばらく女の背中を見つめていた。
(どうしたらいい?)
いやいや、何のトラブルかは分からないが、所詮は三角関係のもつれでしょ。首を突っ込んだってロクなことはない。だいたい、なんだってこんな場所で揉めてんのよ。
(でも……)
冷たい風が杏子の髪を吹き上げた。その風は木立を揺らし、やがて立ちつくす女の髪を揺らした。
なんであろうと、寒い森の中、一人立ちつくす女性を放っておいては女がすたる。
(おっし)
杏子は女に近づいていった。
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